鎌倉散策 「武士の世」十五、和田合戦後 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北条義時らは建保元年五月二日から三日にかけて頼朝挙兵以来の重臣であった和田義盛と鎌倉内で激戦の上、和田一党を討ち取った。和田氏は従来、桓武平氏の流れをくむ三浦の庶流で、三浦義明の嫡男杉本義宗が安房国で長狭常伴との合戦にて矢傷を負い杉本城亡くなり、弟の義澄が三浦を継いだ。義宗の嫡男の義盛は三浦郡の和田郷に拠点を構え杉本城は義盛の弟義茂が入場し、義盛は和田姓を名乗った。

 

(写真:鎌倉 白旗神社前 法華堂跡碑)

 『愚管抄』第六巻、和田合戦において「(和田)義盛左衛門と云う三浦党の長老が義時を深く嫉みて討たんとの志ありけり」と記し、三浦義澄の死去後は、三浦一族の長を義盛とみていたと考えていたらしい。また『愚管抄』は、義盛が自身の計画が明らかに露見してしたと聞くや健暦三年(1213)五月二日、突如義時の館に押し寄せた」と有り、三浦義村の裏切りを知っていた可能性もある。和田と三浦が結べば、強大な軍事力になっていたが、義村は当初義盛に与することを承諾し、御所北門を固める同心の起請文を書いている。嘉元三年(1305)に成立した無住の仏教説話集『雑談集(ぞうだんしゅう)』に「輪田左衛門慰、乱世ヲ時、故駿河ノ前司平六衛慰トテ、北門堅タル起請カキナガラ、反忠シテ彼ノ一門亡了(ほろびおえる)」と記され、『吾妻鏡』は、伝承及び『雑談集』等を基に編纂された可能性もある。

 三浦義村の裏切りは、義盛が北条を討てば、画策した和田氏が主導権を持ち本家である三浦が下位にあたる事になる。義時に与すれば、少なくとも三浦氏の本流としての地位の現状が維持できつつ義時に恩義を売る事になった。しかし、合戦直前に三浦義村と弟胤義は『吾妻鏡』では、「先祖から八幡(源義家)に仕え、恩祿を受け、肉親の勧めに従い累代の主君を射るならば天罰は免れないであろう」と後悔し、北条義時邸に参上して義盛が挙兵したことを告げた。義時は驚きもせず心静かに目算を加えた後、その座を立ったと言う。この義時の態度が恩義を受けたことの好意を示さなかったように感じられる。そして、三浦氏は、宝治元年(1247)に義村の嫡子・泰村が五代執権北条時頼、安達景盛らにより三浦氏は一族が滅ぼされる事は義村には予見することが出来なかったのだろう。

 

(写真:鎌倉 法華堂跡)

 『明月記』嘉禄元年(1225)十一月十九日条で義村を「八難六奇の謀略、ふかしぎのものか」と評している。また建長六年(1254)成立の『古今著聞集』には将軍御所、侍の間の守座を占めていた義村のさらに上座に、下総の豪族千葉胤綱が着座し、義村が不快に思い「下総の犬は寝場所を知らぬな」と言うと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判した逸話が記されている。これは後で語るが、三浦氏と千葉氏の戦力が拮抗しており、また、頼朝挙兵時からの忠臣の御家人であった。この和田合戦で千葉氏の勢力に勲功があった事を示しているのかもしれない。

 

(写真:ウィキペディアより引用 和田義盛像、と六地蔵)

 『吾妻鏡』建久元年五月四日条に固瀬川(神奈川県藤沢市片瀬川)に梟首された首は、二百三十四人、義時側の負傷者百八十八人であったという。実朝は、兵士の勲功の軽重を尋ねた。波多野忠綱が「米町と政所で二度、先陣を切りました」と告げると、三浦義村が政所の前での合戦に対して自身が先陣を切ったと申し、それぞれ激しく言い争っている。義時は、忠綱を人気のない所に連れ、米町の先陣は意義が無く政所の先陣は義村に譲るよう。また、穏便にしていれば、この上もない恩賞を与える事は疑いないと語った。しかし忠綱は「勇士が戦場に向かうからには、先陣を本位とし、忠綱はいやしくも家業を継いで弓馬に携わり、何度でも先陣を進みます。一時の恩賞に心を奪われて、万代の名を汚すことはできません」と語った。その後、審議が行われ、その時に政所で戦っていた武士に訪ねたところ赤革威(あかがわおどし)の鎧で葦毛(あしげ)の馬に乗った武士が先陣であった事がわかり、葦毛の馬は義時が忠綱に与えた片淵という馬で、先陣は波多野忠綱であった。しかし、後に審議中に実朝の前で三浦義村を盲目と称したことで悪口(あつこう)に当たるとし恩賞は差し置かれた。子息の波多野経朝の恩賞は行われている。

 

(写真:ウィキペディアより引用 源実朝像、北条義時像)

 同月五日、和田義盛、横山時兼の所領である美作、淡路などの国の守護職と横山庄以下の主な所領が没収され、恩賞に充てられた。また、義盛が侍所別当であった為、大江広元が奉行を行い、後任に義時が任じられた。これにより鎌倉幕府の北条執権体制が完成されたとも考えられる。この時二十二歳の実朝を坂井孝一氏の『源氏将軍断絶』において「和田合戦は将軍御所が焼け落ち千数百人もの死傷者を出した激戦だったのである。自らの手で滅ぼさなくてはならなかった人々、自分に味方して命を落とした人々、その首を、その名前を 実朝は一人一人確認した。絶大な軍事動員力を持つ将軍権力の大きさ、将軍という地位の重さ、そして将軍である事の苛酷で悲痛な宿命を思い知らされたことであろう。』と記述している。 

 

(写真:鎌倉 和田塚)

 『吾妻鏡』同八日条にて、北条泰時が恩賞を辞退し、その下文を中原広元に託した。泰時は「義盛は主君に逆心を抱いておりませんでした。ただ父義時を恨んで謀叛を起こし、その時の防戦の為、理由もなく御家人が多く死去しました。そこでこの所領はその勲功の賞の不足に充てるようにして下さい。私は父の敵を攻撃しただけで、ことさら恩賞をうけるべきではありません」と話したと言う。これは、『吾妻鏡』が全般的に北条泰時に対し顕彰している面は見られるが、本来この和田合戦は、北条義時と和田泰盛の私戦であり、源氏将軍に対する謀反で無かった事をここでも語られている。合戦直前に三浦義村と弟胤義が『吾妻鏡』で記述された、「先祖から八幡(源義家)に仕え、恩祿を受け、肉親の勧めに従い累代の主君を射るならば天罰は免れないであろう」と後悔し、北条義時邸に参上して義盛が挙兵したことを告げた。と記され「主君を射る」とする事に矛盾が生じる。比企の乱や畠山重忠の乱、牧氏の事件から北条政子・義時と三浦義村は繋がり、事前に和田義盛を裏切っていた事を後に正当性を持たせるために加えられたと考える。

 

(写真:三浦市浜浦漁港 八坂神社奥の三浦義村の墓標)

 同九日、御教所が在京の御家人に送られ、内容は「関東は静まった為、鎌倉に来ることを禁じ、院の御所と守護および謀叛者に備えること」であった。六月二十六日、御所の新造について北条義時、時房、中原広元集まり、衆議された。八月二十日実朝新御所に入る。この建保の年は地震や火事、そして星の変調が多く見られた。この合戦で、五十一歳になる義時は、命からがら法華堂に立て籠もり、武人として敵前の前に立つことなく、策を弄した。義時は頼朝挙兵時から東国武士では無く、頼朝と同様の政治家であったと言えよう。

 

(写真:鎌倉 寿福寺)

 建保二年(1214)二月、栄西が宋から持ち帰った茶は、当時、薬として用いられ、実朝に『喫茶養生記』を献じている。五月、十日以上の日照りが続き祈祷を行う栄西に雨を祈るため八戒を守り、法華経を転読され義時以下、鎌倉中の僧俗・貴賎は一身に勤行に真心を尽くした。しかし雨は降らず、実朝は「この秋より、関東御領の年貢の三分の二を免じて、毎年一箇所を順番に免除するように。」命じた。八月には帝が河のほとりを行幸され、四方を拝されたので、たちまち稲妻が光雷鳴と共に雨が降り五日も止むことは無く、様々な穀物が豊作となった。そのためか鎌倉では激しい雨で洪水になり、大倉御所の総門が崩れた。十一月、六波羅から飛脚が来、京において和田義盛・土屋義清の残党、頼家の子息・栄実を擁立して反乱を企てるが、在京していた中原広元の家人に襲撃され栄実はすぐに自殺し、残党は逃亡したと知らせがあった。

 建保三年正月六日、入道遠江守従五位下平朝臣(北条時政)が北条郡で死去した(享年七十八歳)。時政は追放後、義時をどう見ていたのだろうか、また和田合戦をどのように感じていたのだろうか、そして死の間際、自身を振り返ったのだろうか。この年は平穏に神事、仏事が滞りなく行われた。  ―続く