建保三年の六月から『吾妻鏡』では、御霊所(鎌倉市坂の下の御零社)が二、三度鳴動し、八月には月蝕、大雨や大風により前浜の鳥居が倒れ、地震も起こった。九月には、続けさまに地震が起こり、地震祈祷が行われ、また佐藤伊賀前司・藤原朝光の頓死している。十一月には、御霊所の頻りに怪異があるため解謝(祓い)を行い、太白星が哭星第一星に接近、太白星が哭星第二星に接近する等、凶兆の兆しが見られた。また、実朝の夢に和田義盛の死者が群集する怪異があり、幕府は急遽仏事を行っている。十二月にも金星と木星が同位置となり同じ時に地震が起こっている。同月十六日、連続して起こる天変などについて司天の者(天文博士や陰陽師)が勘文(関門:)を提出し、将軍家が特に謹慎されるべき異変とした。三善康信がこれを取り次ぎ北条時政・中原広元・二階堂行光
等が「善性を興され、佳運長久の術を廻らせるべき」と実朝に提言している。
健保四年四月二十二日付の将軍家政所下文に政所別当の中原広元、源仲章、北条義時、源頼茂、大内惟信、源頼広、北条時房、中原師俊、二階堂行光の九人が別当署判の位置に列挙されている。政所別当は、承元五年(1209)の開設以来、義時、時房、親広が就いていたが、後に師俊、仲業、行光が加わり、この度に至った。別当九人制の意味を五味文彦氏は、実朝の側近や源氏一門を加える事で将軍権力の拠点である政所での実朝の意向を反映させて、将軍親裁の強化を図る意図があったとしている。また坂井孝一氏は、仲章、惟信、頼茂が在京することが多く、彼らの将軍家政所下文は五通しか存在しない事から、将軍実朝と執権義時が協調するのではなく、牽制しあう関係にあったとも考えられている。要するに義時の執権としての政務に異を称えさせる事の無いように源氏諸将を組み入れたと言わざるを得ない。また、源氏一門の惟信、頼茂、大学頭(だいがくのかみ)の仲章は後鳥羽院に近く、和田合戦における鎌倉の治安に対し、不信を払拭する狙いがあったとも考えられる。朝廷と幕府との関係は、頼朝の挙兵後「寿永二年十月宣旨」、「文治の勅許」などにより、その軍事・警察権力で安定した所領・荘園の徴税を行なわせ、幕府に朝廷からの権威と将軍推挙により御家人諸士に官位・叙任を与える事が最大の目的とした関係であった。幕府は、後鳥羽院の顔色を見たともいえる。
建保四年(1216)三月二十二日に三条中納言(藤原)実宣の妻室が亡くなり。実宣室は北条時政の息女で義時の妹に当たるため、義時は御軽服(ごきょうふく:服喪の期間)となった。四月、中原広元は大江氏に改姓の勅祭を申請することで内々に京と鎌倉に相談し実朝に申請した。閏六月十四日、広元は今月一日に大江姓に改名することを許されている。
(写真:ウィキペディアより引用 源実朝像、大江広元像)
同年八月、実朝はさらに左近近衛中将を兼任する。九月になり実朝は右大将に任じられる事を思い、義時は実朝がそれに応じた年齢に達しておらず早急な昇進は過分であるため広元から実朝に諫めてもらうよう依頼した。中納言職は摂関家に与えられ、頼朝の跡を継いで、さしたる勲功もなく昇進することは、「臣下は自分の器量を見極めて官職を受ける」ことが望ましく過分に昇進することは「官打ち」と言われ、自らを滅ぼすと言われた。広元は御所に参り実朝に「御子孫の繁栄を望まれるならば現在の官職を辞して、征夷大将軍として徐々に年齢を重ね大将を兼任されるべきです」。と諫めるが、実朝は「諫言の趣旨は誠に感心したが、源氏の正統は自分の代で途絶える。子孫が継承することは決してないだろう。ならば、あくまでも官職を帯びて源氏の家名を挙げたい。」と言われた。実朝は、以前患った疱瘡での高熱が原因か子息がおらず、その後に自身の起こる災いを感じていたのかは解らない。先述したように、後鳥羽院と実朝の関係は、鎌倉の治安維持を回復し、御家人諸士との主従関係を勤めた事により、再び良好な関係を構築していく。後鳥羽院は、実朝に対し信頼と支援を官位上昇という形で示したと考えられる。義時は実朝の推挙により健保五年(1217)従五位以下相模の神から、正五位以上の名目的京官である右京権大夫(右京兆:うけいちょう)に承認し、父時政の従五位以下総統の遠江守で右京権大夫北条氏の極官である歴代最高の官職であり、実朝の昇進について諫言は不可思議である。
十一月二十四日、宋人の陳和卿から「医王山の長老」と言われ、前世に住んでいた医王山に参拝することを望み、唐船造営を陳和卿に命ずる。翌年四月十七日に由比浦に浮かべるが、唐船が出入りできる地形でなく、転覆し、そのまま朽ちてしまった。
建保五年(1217)六月二十日、頼家の子息・阿闍梨公暁が園城寺から鎌倉に戻り、欠員になっていた鶴岡八幡宮の別当に任じられる。公暁はこの二年ほど明王院僧正公胤の弟子として京都の円城寺で仏教修行を行っていた。十月十一日、阿闍梨公暁が鶴岡八幡宮の別当に任じられ、初めて神拝が行われた。また、この日から千日間の間鶴岡八幡宮時に参籠する。十一月八日、大江広元が目を患い、腫物なども重なった。北条義時が見舞うが、十日、広元は命を長らえるため出家し法名は覚阿と与えられている。同月十七日広元が出家したため陸奥守が欠員となり義時が兼任するよう実朝の推挙があった。十二月十日、覚阿は病が治ったが視界が暗く、黒白を見分ける事が出来ない状態におちいる。二十四日、義時は実朝から推挙された陸奥守を兼任した。
建保六年(1218)正月二十一日、実朝は権大納言を任じられる。二月十二日、実朝は左大将任官を望み、朝廷に申請する為、波多野朝貞が上洛した。三月十六日、実朝は左大将の任官を受けた。七月九日、義時は、夢の中で薬師十二神将の内の戌神が枕元に立ち、「今年の神拝では何事もなかったが、来年の拝賀の日は供奉されぬよう」。義時が目を覚ましてから、不思議に思い、またその意図を図りかねたと言う。義時箱のお告げは自身の安全のための宿願であり、自身の負担により大倉に薬師堂(覚園寺)を建立する事を決めたと言う。侍所所司五名が定められ、北条泰時を別当とした。十月十九日、実朝、内大臣に任じられ、同二十六日、北条政子は従二位に叙された。
この時期については、『吾妻鏡』では、凶兆を示しつつ、実朝の急速な昇進について「官打ち」という言葉で、後に起こる実朝暗殺を幕府が抑制することが出来なかった事と、執権義時がこの事件で対応できなかった点と自身の関わりを弁明する記述が三年ほどかけて記載・編纂されたと考える。 ―続く