鎌倉散策 雪の北鎌倉 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 令和四年、新年を迎え日常生活に戻った六日の木曜日。鎌倉は午前十時ぐらいから雪が舞い始めた。天気予報では、横浜一センチ程の積雪を予想しており、内心積もれば、念願の鎌倉の寺院の雪景色がみられると思い少し興奮気味になる。

 

 その日の朝、何時も通り朝八時半に近くの神明神社に参詣する。今にも雨か雪が降り出しそうな天気であったが、雨雪とも会うことなく住居に戻る。何時もの様に九時前から十二時位までが、この日に出すブログの配信を済ませる。書斎兼寝室の窓は山赦免と竹林に覆われているため雪の降雪程度がわからない。リビングからは、雪は風に舞いながら降る景色を見ることが出来るが、積雪の傾向はなかった。正午になり昼食を食べながらニュース番組を十四時まで見るのが日課である。東京の皇居前や東京駅の芝生等が雪で覆われだした。窓の外を見ると空も暗く雪が真下に落ちるようになり、これは翌朝に積雪が期待できるのではと思いながら、いつもの様にブログの記事を作成し、五時に終えて夕食の準備をする。積雪量を確かめるために真っ暗になった外を見ると五センチ程度積もっていた。その夜は、明日の朝のブログの配信準備を行い、台峰を通り北鎌倉の東慶寺と浄智寺、そして円覚寺に行くことを決めた。

 

 翌朝、六時半に起き、外を見ると一面に白い世界となっていた。鎌倉に来て三年目の出来事である。寺院は九時に開門されるため、早速ブログの配信を行い、朝食を食べ、朝の連続テレビ小説を見て八時半前に住居を出る。鎌倉周辺は、山の斜面に発つ家が多く、階段や急坂があるため老人にとっては住みにくい場所かもしれない。私の住居も一般道路まで急坂があるため登山用のビムラム底の靴で出たが、案の定、坂で滑り背中から落ちた。打ち付けた背中は問題ないが、反動で胸の前の胸骨辺りにひびが入ったと思われる。激痛が走り、吸気するたびに痛みが走るが、ゆっくりと歩きながら息を整える。痛みを抑えながら、せっかくだから台峰までは行こうと思った。季節ごとによくとおる台峰の遊歩道の景色は一変し、新鮮な気分に浸るが胸の痛みは続いていた。昔は、冬山にも上り下山の際は、プラスチックブーツにアイゼンを付けずスケーティングしながら降りたものだが、もうそれも二十年前の事となる。もう初老になっているのだと感じ、若いと言うのは本当に素晴らしいと感じる。

   

  台峰は、もう既に人が歩いており、遊歩道を歩き何人かの人に出くわす。何時もは挨拶をするが、痛みの為、言葉を発することが出来ない。しかし北鎌倉女学園のグランドに来ると富士山の綺麗な姿が見えた。この地で見る、今までの最高の姿であった。円覚寺を望む展望台にようやくたどり着く。胸骨の部分は痛むが、ゆっくりと歩くことは出来、そのまま瓜ヶ谷の住宅地を下り鎌倉街道に出て東慶寺に向かう。

 

  

 東慶寺の石段は、すでに除雪されており、山門をくぐると境内には何人かのカメラを持った人が撮影していた。樹々の枝に雪が留まり、水墨画の様相を示しながら空は快晴の如く青く色付く。本堂横では蠟梅(ろうばい)が黄色の花びらを付けていた。本堂で釈迦如来像にお参りをして、八代執権、北条時宗の妻で、開山の覚山尼の墓標まで行こうとしたが、松ヶ丘宝蔵より先は、危険の為に、柵が置かれ立ち入ることはできなかった。後醍醐帝の皇女・五世用堂尼、豊臣秀頼の娘・天秀尼の墓所の雪景色は、美しい事だったろう。そして東慶寺を後にした。

  

 鎌倉街道の歩道部分は雪が残り、車が行き交う中、痛みをこらえながら道路寄りに歩かねばならなかった。鎌倉街道を離れ浄智寺に入ると気持ち的にほっとした。鬱蒼とした杉木立の中、二階に花頭窓のある唐様鐘楼門が雪景色の中にたたずんでいる。春の著莪や諸喝菜の咲く風景も良いが、この雪景色は数年に一度しか見られず、感慨深い物であった。本堂・曇華伝の本尊三世仏にお参りして境内を一回りする。日差しが雪に反射し眩しく、境内を彩っていた。雪の北鎌倉を体験することが出来たが、もうこれ以上は無理をしない方がよいと思い住居に戻った。

 

 それからが大変だった。今までに二度ほどろっ骨を折っているため、血痰が出ていない状況では病院に行っても胸部コルセットとシップ薬、痛み止めの処方しかない。シップを貼り、痛み止めを飲んだが食事の際に少し前かがみになると激痛が走る。夜、布団に入る動作も痛みが走り、寝返りすら打つことはできない。全快するには、一、二週間は必要だろう。

 今日で痛みも五日目だが、昨夜は眠ることが出来た。