鎌倉散策 「武士の世」十三、和田合戦前夜 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 元久二年(1205)閏七月の牧氏事件において北条時政は鎌倉追放後、十四歳の三代将軍・源実朝を母・北条政子が後見、北条義時二代執権となり、実朝は次第に幕政を担うようになる。『古今和歌集』を京から運ばせ和歌の才能も開花させていく。建永元年(1206)二月二十二日十四位以下に叙され、十月二十日には頼家の子息善哉(後の公暁)を政子の命により実朝の猶子(ゆうし)として初めて御所内に入った。善哉の乳母夫は三浦義村で賜物等を献上された。

 

(写真:ウィキペディアより引用 源実朝『国文学名家肖像集』収録、和田義盛像『前賢故実 』より)

 承元元年(1207)正月五日、実朝が従四位以上に叙され、二月には北条時房が武蔵守に任じられ、平穏な日が続いていた。幕府の政務は各地からの訴状などが多く、裁定されていたが、武士たちは大きな戦も無く、気の緩みも生じていた。承元二年(1208)二月十日実朝疱瘡(天然痘)になり大変苦しんだとされ、当時は致死率の高い病であった。二十九日には回復したとされる。その後、疱瘡は瘢痕が残るため、それを恥じて、三年ほど鶴岡八幡宮の参拝を止めている。十二月九日、正四位下に叙される。承元三年(1209)四月十日従三位に叙される。藤原定家に和歌三十首の評を請うている。同年十一月十四日、北条義時が、年来の郎従(皆伊豆国の住人で、主達と号した)の中で手柄のあった者を侍に準じると命じられるように望み、内々で審議が行われたが、実朝は「そのことを許せば、その者たちが子孫の代になり以前の由緒を忘れ、誤って幕府へ直参を企てる。後の災を招く元であり、許してはならない」と許さず、激しく命じたとされる。

 

(写真:三浦市初芦町和田城跡)

 建暦元年(1211)正月、実朝は正三位に叙され、美作権守を兼ねる。六月二日、実朝が急に病機となり、大変重い様子であった為、戌の刻に御所の南庭で属星祭(ぞくしょうさい)が行われ、安倍泰貞が奉行した。三日、実朝は病気について夢のお告げがあり、霊験があったと言い、回復した。『吾妻鏡』では、この様な実朝の霊験的な夢の話が多く記載される。八月には中原広元が病悩に苦しみ様々な祈祷が行われている。八月二十七日、実朝は疱瘡を患ってから初めて鶴岡八幡宮に参った。九月十五日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し二十二日に授戒を受けるため上洛する。 

 建暦二年(1212)五月、北条義時の次男朝時が昨年、京より下向した佐渡の守(藤原)親康の娘で、実朝の御台所の女房に朝時は好きになり恋文を出したが受け入れられず、昨夜に夜が更けた後、秘かに女性の部屋へ行き誘い出したと言う。この事で実朝の怒りを受け、義時も義絶したため、駿河国藤郡に下向した。後の和田合戦、承久の乱で鎌倉に参じ北陸軍の大将として武功を挙げている。本来ならば、正室であった姫の前(比企朝宗の娘)の子・朝時が嫡男であってもおかしくはなかった。十二月、実朝は従二位に叙される。

 

(写真:三浦市天王様八雲神社)

 建保元年(1213)二月十五日、信濃の住人青栗七郎の弟、阿静房安念法師を千葉之介成胤が生け捕り、評議の結果二階堂行村に叛逆の実否を問い糺すように命じられた。安念法師の白状により、謀叛の者が諸所で捕縛され、二百名に及んだとされる。事の内容は信濃国住人の泉小次郎親平が一昨年より、捕縛された諸者に対し、尾張中務丞が養育している故二代将軍頼家の子息・栄実を大将軍として北条義時を討つ企てであった。捕縛された中に侍所別当・和田義盛の息子・義直と義重、甥の胤長がいた。二十六日、因人として捕縛された渋河兼守に明日、明け方に誅殺が命じられ、無実の罪に悲しみ思う十首の和歌を荏柄者に奉納した。工藤祐高が奉納された和歌を御所の実朝に持参し、それを読んだ実朝は感心し、兼守の罪をその場で赦している。兼守は天神の加護にあずかり、また将軍の恩志を蒙った。同日、実朝は正二位に叙されている。謀反人の多くは配流とされたが、泉小次郎親平は一度、見つけられたが逐電し、その後、発見する事は無かった。

和田義盛は頼朝挙兵時からの忠臣で、今は幕府の侍所別当であり、同族の三浦氏と並ぶ勢力を持つに至る。また、実朝の幼少期から仕え、実朝の知る謀叛・合戦において武功をあげ、実朝は義盛の人間性に親しみを持っていた。そのため、自身の子息、甥が泉親平の乱に加わり実朝に赦免の直訴を行っている。

  

(写真:三浦市天皇様八雲神社 和田義盛碑)

 三月八日、和田義盛は御所に参上し実朝と対面した。実朝は義盛の度重なる勲功に免じ義直と義重の罪を赦された。翌九日、和田義盛は木蘭地の水干と葛袴を着た姿で再び一族九十八人を引き連れ御所に参り、甥の胤長の赦免を請いに来た。しかし胤長は今回の首謀者であり、特に策謀を廻らしていたため、赦免されない事の実朝の意向を北条義時が伝え、二階堂行村にその場で引き渡した。その姿は胤長を後ろ手に縛り、一族の列座する前で行われた。和田義盛の逆心は、ここで決まったと言われる。胤長の荏柄社の前の屋敷は没収されることになったが、義盛の嘆願により許され代官を置いた。しかし義時が和泉親平の乱平定に功績があった金窪行親に拝領させている。この判断は、義時が独断で行ったと考えられる。しかし、この判断が和田合戦における重要な拠点となるのだ。 

 当時の大倉御所は、現在の鶴岡八幡宮の東に在る清泉小学校辺りで金沢街道沿いに南御門、その前が大江広元邸。西大路に西御門、現在の横浜国立大付属中学校あたりに三浦義村邸、北御門には、白幡神社、源頼朝墓所、後に法華堂が立てられた山の斜面が覆う。東御門は荏柄天神が近くその脇に和田胤長邸があった。北条義時邸は、現在の宝戒寺周辺。和田義盛邸は鶴岡八幡宮の平家池対面の横大路周辺とされる。合戦時において、北門は三浦勢、東門は胤長邸から、南門、西門は和田勢が抑えることが出来ることになる。この合戦は将軍実朝を誰が確保するか否かにかかっていた。

 
 四月十五日、和田朝盛は、実朝の寵愛を受けていたが、他の和田一族は御所に出仕しなかった。朝盛も朝夕の奉仕を止め、蟄居した。その間に浄遍僧都と会い、出難生死の道を学び読経と念仏を務めていた。その日ついに出家を遂げようと、長年の名残を思って御所に参上した。実朝は名月に向かい、和歌の御会を行っていた。朝盛は実朝に和歌を献上し、その、優れた和歌に何度も感心された。朝盛はこのところ祇候していなかった事情を伝え、実朝は主従共に心中のわだかまりを解き、喜びの余り数か所の地頭職を一紙にまとめ記し、直接朝盛に下し文を与えた。月が中天に及んだ頃、朝盛は退出し、帰宅せず浄蓮房源延の草庵に行き、髪を剃り、実阿弥陀仏と号し、そのまま京都に向け旅だった。同十六日、この事を知った父常盛と祖父義盛は朝盛の残した書状を見て、義直に追って連れ帰って来るよう指示した。朝盛は、まれなほど優れた武士で、軍勢の棟梁になるべき者で有った為、義盛が惜しんだためと言われた。また、朝盛が出家したことにより逆反がわかってしまう事を恐れたともいわれる。書状の内容は「叛逆の企ては、今となってはきっとこのままではすまないでしょう。しかしながら一族に従って主君に弓を引き申し上げることはできません。また主君の下に参じて祖父に敵対することもできません。そのため出家して、自他の苦しみや患いから逃れるしかありません。」と記されていた(引用:現代語訳吾妻鏡、五味文彦・本郷和人編)。 

 北条義時は、必要以上に和田義盛に挑発を行ったが、『吾妻鏡』において和田義盛が出陣した時は、碁会を行っていたとされ、和田勢が出陣するとは思いもしなかった事が窺われ、三浦義村からの知らせで知る事になる。 ―続く

 

(写真:三浦海岸、小田和湾)