鎌倉散策 「武士の世」十二、北条義時、二 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北条義時は、頼朝存命中は、それほど表立つことは無かったが、『吾妻鏡』でも平家追討、奥州追討の時にも従軍しているが、ほとんど記載はされていない。頼朝は義時を弟のように可愛がり、それに義時は忠誠を示していた。頼朝自身、北条時政に一線を引き、京都守護、伊豆国守護を与えているが、官位の推挙は行っていない。しかし、義時を信頼し重んじていたと考える。『吾妻鏡』では相模川の橋が完成し、供養のため頼朝も出向き、その帰路落馬し数日後亡くなっている。この供養は稲毛重成(畠山重忠の謀反を讒言、後誅殺される)の亡き妻が亡くなった供養のために造った橋で、重成の妻は義時の妹あった。義時は本来、姉政子や弟、妹に優しい人間であったように思える。しかし、義時の主君である頼朝政治手腕と父・時政が行ってきた我が身を守り権力を得るための謀略、誅殺に対し、感化されたのか、義時自身の本質であったかは不明である。北条家の一員として、実直に頼朝に仕えた武士であった。しかし、その後は幕府内で変貌していく。

 

 正治元年(1199)、頼朝の跡を継いだ二代将軍源頼家の独裁を抑えるために十三人の合議制に加わった。しかし、『吾妻鏡』に描かれた頼家の暴挙といった点が、事実であるかは疑問を持つ。頼家は古今に例を見ない武芸の達人とされるが、『吾妻鏡』は、北条氏により編纂されたことで、頼家に対しては、厳しく批判的に記述しており、蹴鞠に熱中し数々の「乱行」を繰り返したとされる。既に人身が離反したことを示し、頼家暗殺を正当化しようと記載されている。しかし、当時の他の資料を見ると九条兼実の日記『玉葉』や慈円の『愚管抄』の記載の中では、「乱行」の記載は、見られない。正治元年(1999)四月一日、これまで政所の付属機関として多くの訴状の対所が行われたが門注所を独立させ、三善康信を執事(長官)として御所の外郭に建てられた。正治元年四月十二日に朝廷の宣旨により頼朝の嫡子・頼家が頼朝の跡を継承した後、わずか三ヶ月で北条正子は頼家の幕府においての訴訟審裁を停止され、北条時政ら十三人の合議で諸事を裁決することを定めた。実際には十三人による合議はほとんど無かった。また、この合議制は十八歳の頼家も補佐する建前で顕示されたと考えられるがが、この十三人が政権内で特権的な地固めになった事は明確である。

 

(写真:ウィキペディアより引用 源頼家像と伊豆修禅寺源頼家墓所)

 頼家の訴訟親裁停止については『吾妻鏡』に明確な記載は無く、その後の「乱功」を後事談として記載している。「武士の世」八、武士の棟梁 源頼家の罪業で記載させていただいたように、正治元年(1999)安達景盛の件、梶原景時の件。正治二年(1200)畠山重忠の件、建仁元年(1201)蹴鞠没頭の件。建仁二年(1202)阿野全成の件等が記載されている。蹴鞠や和歌は当時朝廷との折衝等で用いる一つの手段である事を確認しておかなければならない。頼家は、自身の将軍としての権勢を有力御家人、特に北条に対し影響されることなく政務を行おうとしたとも考えられる。頼家は独自性を打ち出し、門注所の独立、五月には御家人の兄弟間での争われる訴訟に就き和解を命ずる宣言。田数にして五百町を超える所領を持つ裕福な御家人から超過分を取り上げ貧しい御家人たちに再配分という徳治主義的な政策を立てている。しかし、十三人の重臣たちや所領恩給で拡大した東国の武士にとっては許される事ではなく、大江広元がこの政策に異を唱え、三好康信の調停においても頼家は意志を変えなかった。そしてこの政策は結局実現することはなかった。

 

 梶原景時が鎌倉追放後、京の公卿を頼り、一族の上洛を試みた時、駿河で景時を在郷の吉川氏に討たれているが、その裏で時政、義時の工作があったのではないかと考えられている。慈円の『愚管抄』において梶原の景時を死なせたことは頼家の失策であると評した。頼家が危篤に陥った際に、乳母夫の比企能員と北条時政が頼家の継承・所領配分問題が起こり、義時と義時がだまし討ちの様相で討ち果たした。『愚管抄』では逃げ延びた一幡を義時の手勢により殺されている。比企の乱後、自身も伊豆修禅寺に幽閉され、北条義時の刺客により暗殺された。義時は、この時、江馬姓であり、嫡子は、時政と牧御前の間に生まれた政範を考えていたとされ、北条家内においての発言力も弱かったと考える。しかし、源頼朝の正妻だった北条政子の存在は大きかった。この時代において家の主人が無くなると、正妻が家長の役割を果たす。平清盛の父・忠盛の後妻、継母であった池禅尼が平治の乱で敗れ、捕らえられた十三歳の源頼朝の処刑を嘆願し流罪にしており、家内での主導的役割を果たす。

 

(写真:ウィキペディアより引用 畠山重忠像と畠山重忠公墓所)

 北条政子は、次男実朝の将軍職の後見人であり、畠山重忠の謀反を稲毛重成が讒言して政子が御家人に畠山重忠討伐を指示した。頼朝の時代から武功に秀で、武士の鑑とも称された重忠であったが、豊かな武蔵の地の略奪と強力な秩父平氏の武蔵武士団の解体が目的であった。畠山重忠の乱で当初は、義時は反対であり、取り調べを主張したとされるが、牧御方に強要され重忠討伐軍を率いた。二俣川(現横浜市旭区保土ヶ谷)で合い、平服で百余騎ほどの重忠に対し数千騎の兵を持って討ち取ったが、数時間に及ぶ激烈な戦いであったと言う。父時政に重忠の首を持ち帰り、重忠は謀反を越していなかったと涙を流し訴えた。『吾妻鏡』読む者にとっては、この記述が北条氏の創作である事を窺い知ることが出来る。この事件が時政の後妻の牧御方による讒言で時政が動き、義弟・稲毛重成の讒言によって御所に持ち込まれたことで勃発した。この乱は、北条一族、時政、政子、義時、時房、義弟・稲毛重成、そして三浦義村によって引き起こされた乱である。翌日、無実の罪で謀殺された重忠に対する御家人の怒りの矛先を重成に向け、三浦義村は稲毛氏一族を誅殺した。この対応が時政により、また義時により、果たして義村の策であったかは不明であるが、遺領は重忠の遺児や縁者に与えられず、庇護した形跡もなく、重忠を討った武士たちに与えられた。畠山の名だけを惜しみ、時政の娘と婚姻した足利義純に名を与えている。

 

 その後、牧御方の嫁婿・平賀朝雅を将軍に就けようとした牧氏事件、により朝雅誅殺、時政追放した。また、宇都宮頼時の追討は姉北条正子と義時の考えによるものであると考えられる。義時は、武蔵の畠山重忠、平賀朝雅他を誅殺したことで武蔵守護を弟の時房に与えた。そして、義時は御家人の合議成して幕府を維持したとされるが、実際、義時は北条政子・実朝の後ろ盾により、三浦義村、安達景盛そして大江広元の重臣により幕府運営を行っている。言い換えれば、北条政子により動かされていた節がある。義時の変貌は建保元年(1213)二月に和田合戦を引き起こし、最終的に権力を手中に収め、執権体制を整えた。義時は十三人の合議制の中での武士四名を滅亡へと追い込み、他の殺戮に関与した。しかし時代は頼朝の後、義時を選択した。この義時の人間性の本質はなんだったのか興味が絶えない。実朝暗殺。四代将軍継承を摂関家の藤原頼経(頼朝の遠縁、当時二歳)と続く。そして、承久の乱で見せる北条正子の行動は、さらに義時を操っていたように思えてしまう。 

 

(写真:鎌倉 法華堂跡 北条義時墓)

 『吾妻鏡』において義時の小心的な姿が窺え、姉・政子や大江広元、三善康信の行動と助言が無ければ、承久の乱を大勝することは出来なかった。また、嫡男泰時、謹慎中の次男朝時(比企朝宗の娘・姫の前が母)が承久の乱を見事に大勝に持ち込む。元仁元年(1224)六月十三日義時六十二歳で急死した。『吾妻鏡』に衝心脚気の為とされるが、脚気は病状が進行し衝心脚気により急死するため疑問を持つ。伊賀の方の実子・正村を執権に就け一条実雅を将軍に擁立しようとした伊賀の方の毒殺と言う説もある。藤原定家の明月記において実雅の兄承久の乱の首謀者の一人・尊長が六波羅探題で尋問を受けた際に苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで取り調べの武士を驚かせた。

 『吾妻鏡』を初めて読んだときは、義時の実直さを感じ取るが、他の文献、書物等を読んでいるうちに、やはり『吾妻鏡』は鎌倉幕府によって編纂れた歴史書であるため、勝者の論理により曲筆・脚色されている。畠山重忠に関し非常に擁護や賛美が記載され、梶原景時は讒言者として悪人に取り扱われた。そして、義時の人間性を窺うことが難しく、不明である点に読者はその実像に迫りたいと思うのである。後に続く和田合戦と実朝の暗殺、承久の乱にて北条義時の本質が窺い知ることだろう。  ―続く