鎌倉散策 「武士の世」十一、北条義時、一 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 この「武士の世」で多くを語らなければならないのが北条義時である。源頼朝の死後、二代将軍源頼家を暗殺し、父北条時政を追放し、そして北条執権体制を確立させた。しかし『吾妻鏡』『愚管抄』『明月記』『源平盛衰記』『承久記』を読むと義時の本質が窺える。そして同腹姉の北条政子が義時を動かし、北条執権体制の実質的な創作者であると考えるのは私だけであろうか。義時に焦点を当て政子の関与を交え述べさせていただく。

 

(写真:ウィキペディアより引用 北条義時像、 北条政子像)

 北条義時は北条時政の次男であり、鎌倉幕府将軍源頼朝の正室北条正子の同腹弟である。頼朝の臣下として仕え、二代鎌倉幕府執権の座についている。義時は、長寛元年(1163)に生誕し、元仁元年六月十三日(1224)に没した。『吾妻鏡』の義時の初見は、治承四年(1180)八月二十三日条、「夜になって降り注ぐように激しく雨が降った。今日の虎の刻に武衛(源頼朝)が北条殿(時政)親子、(安達)盛長、(工藤)茂光、(土肥)実平以下の三百騎を率いて相模国石橋山にて陣を構えた。…平家被官の者参禅予期が同じく石橋山の辺りに陣を構えた。」と「親子」からである。義時には、兄の宗時がいた、八月十七日、源頼朝の舅であり、父の時政、兄宗時と頼朝の挙兵に従い、初戦の山木判官を討ち取るが、石橋山の戦にて伊藤祐親の軍勢にかこまれ宗時は討ち死にしている。北条時政の次男・義時が十八歳の時であった。

 

 『吾妻鏡』では、惨敗後、時政と義時は箱根湯坂甲斐武田に向かおうとしていたが、頼朝の後を追い、夜になり杉山に隠れる頼朝の陣にたどり着いた。箱根山の別当行実が弟の永実に食事を持たせ頼朝を尋ねさせている。その食事は全員が飢えていた時だったので千金に値したとされ、その後、永実の案内で箱根山に至った。同二十五日、頼朝は、土肥実平と永実と共に箱根路を経て土肥郷に向かう。時政は、永実と同宿の南公房に導かれ現状を告げに甲斐武田に向かうが、頼朝の今後の行き先を見定めておらず、途中で土肥に引き返したが、再び会うことが出来なかった。そして、同二十七日に土肥郷の岩浦から北条時政・義時、岡崎義実、近藤七国平と共に安房国に向かっている。二十八日に源頼朝は土肥実平と小舟に乗り安房国に向かった。安房国に向かう事は、このような事態において事前に示されていたとする説が有力であるが、時政が行き先を見極めるため引き返した事で不可思議に思われる。また時政と義時が甲斐に向かい、引き返して船で安房に向かった事で行き先が想像され、『吾妻鏡』の内容にも疑問を持つ。この時、義時は十八歳で、本来ならば父に助言もできる年ごろであるが、父時政に付き従う子息であった。

 

 挙兵した頼朝勢は再び体制を建て直すために九月八日、甲斐源氏を味方につける頼朝の趣旨を伝えるため時政、義時は甲斐に赴く。十五日、武田信義・一条忠頼は信濃国中の凶悪(平家家人)な者たちを討ち、甲斐国で時政親子に会い「頼朝のお仰せの趣」を伝え、甲斐源氏を味方につけた。十月十三日、時政、義時は甲斐源氏と共に駿河に侵攻し連携を成し遂げている。頼朝は安房、上総、下総、武蔵国の武士団をまとめ十二月十二日、頼朝は大倉亭移渡の儀に時政と他の後に御家人となる武士達とともに列した。また、『吾妻鏡』の養和元年(1181)四月七日に義時は頼朝の寝所を警護する十一人に選ばれている。その者は、江馬四郎(北条義時)、下河辺庄司行平、結城七郎朝光、和田次郎義茂、梶原元太景季、宇佐美平治実政、榛谷(はんがや)四郎重朝葛西三郎清重、三浦十郎義蓮、千葉太郎胤正、八田太郎知重であった。「御家人等の中で、特に弓矢に優れたもの、また信頼の厚き者を選び、御寝所の近辺を祇候(しこう)するように定められた。」頼朝の側近・親衛隊は「家子」と呼ばれ門馬(源氏血縁者)と御家人の中間に位置漬けられ「義時は家子の専一」とされた(『吾妻鏡』宝治二年十二月二十八日条)。しかし、義時は、武芸についての記述は無く、その後の治承・寿永の乱、奥州合戦においても戦功は全く記されていない。北条嫡子・宗時が石橋山で討たれたことで頼朝はあえて決戦の場には近寄らせなかったのかもしれないが、異腹弟の時房もいるため、頼朝が義時を特に好んだとも考えられる。

 

 亀の前の件で、頼朝が囲っていた愛妾・亀の前の存在を北条時政の後妻・牧の方から知らされた北条政子は激怒し牧の方の父・牧宗親に命じ囲っていた伏見広綱邸を破壊するよう命じ、行った。そのことを知った頼朝は、宗親を呼び出し叱責し宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親の仕打ちに怒り、頼朝に暇を取らず伊豆にもどっいる。この事を聞いた頼朝は「江馬(義時)は穏やかな者だから父がたとえ不義のうらみを抱いて、暇乞いをせずに国に下っても従ってはいないだろう。鎌倉にいるかどうか、確かに訪ねて来い」と梶原景季に調べさせた。義時は父時政に従わず鎌倉に残ったことに「特に感心する所である。汝はきっと子孫の護りとなるであろう。この賞は追って与えよう」と。江馬殿はその答えを申されず、かしこまりましたと申し上げ退室されたと言う。 

 

 文治(1185)二月一日、源の範頼(頼朝の弟)率いる平氏追討軍に属し西国に赴き豊後国の葦屋浦の太宰少弐(原田)種直との戦いで武功を挙げるが、実際は、下河辺行平が美家敦種を討ち、渋谷重国が種直を矢で射ており、義時の武功に対する記述が残されていない。文治元五年(1189)七月、奥州合戦に従軍。建久元年(1190)に頼朝の上洛の際、右近衛大将拝賀の隋兵七人のうちに選ばれ、参院の供奉をした。

北条義時は北条時政の子であり、長子宗時が石橋山で亡くなっていたが、『吾妻鏡』では分家の江馬の姓(江馬四郎)で記載されている。時政の後妻の牧の方が文治六年(1189)に異母弟政範を生み、十六歳で官位五以下に除され、二十六歳違いの義時と同列の地位になる。時政は牧の方との子・政範を嫡子として考えていたと考えられる。

 

(写真:鎌倉 妙本寺祖師堂と比企一族の墓)

 義時二十一歳で長男・泰時(後の鎌倉幕府三代執権)が生まれるが、庶子であり、建久三年(1192)九月二十五日、頼朝の仲介で比企(籐内)朝宗の娘である姫の前(誉れ高い幕府女房であった)を正室に迎え翌年嫡男・朝時(義時から義絶されるが承久の乱で呼び戻され北陸道大将として武功を挙げる。後、泰時に忠誠を誓う)を儲けた。『吾妻鏡』には「比企の籐内朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。特に御意に叶う。容顔太だ美麗なり」と記述されている。頼朝の気に入る女房(女官又は女性使用人)であったが、義時は一年余り恋文を送るが、なびかず、頼朝はそれを見かね「絶対離縁致しません」という起請文を書かせ二人の仲を取り持った。そして、朝時、重時の二児を産んでいる。

  

(写真:ウィキペディアより引用『明月記』断簡 大阪府立中之島図書館蔵)

 比企の乱後『吾妻鏡』では、姫の前の消息は記されておらず、『明月記』によると嘉暦二年(1226)十一月五日条によると「源具親(村上源氏房流で元久二年(1205)従四位下、左近少将に至る)の子(源輔通)は北条朝時の同母弟で、幕府からの任官の推挙があった」と記している。輔通は元久元年(1204)生まれであることから、姫の前が比企の乱直後に義時と離別して上洛し、源具親と再婚して輔通を生んだとされる。輔通は院近臣で、幕府から任官の推挙が不可思議であり、義時も元仁元年六月十三日(1224)に没しているため義時の配慮とは思えない。また『明月記』には、承元元年(12079三月三十日条に「前日の源具親少将の妻が亡くなった」と記され、姫の前は再婚後三年ほどで京都でなくなっている。この再婚に義時が関わっているかは定かではないが、具親の次男・輔時も姫の前の子とされ天福元年(1233)に北条朝時(義時の次男で姫の前の子)の猶子となっている。時輔は、宝治二年(1248)従三位右近中将に叙されているが、これは後嵯峨院政下の村上源氏に対する処遇の一環であると考えられ、右近中将任官の翌年の建長元年(1249)六月七日に享年四十六歳で死去した。

 

(写真:京都 東寺と八坂法観寺の塔)

 義時は、姫の前と離別後、藤原秀郷庶流・伊賀氏の伊賀朝光の娘を継室として正村、実泰を生んでいる。義時の急去により、伊賀の方の兄伊賀光宗と共に実子・正村を執権、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図るが、北条政子が正村の異母兄の泰時を義時の後継とし三代執権に擁立させた。これが「伊賀の変」であり、伊賀の方、光宗、実雅は流罪となるが、正村はこの事件に連座せず、その後七代執権となっている。 ―続く