正治元年(1999)四月十二日、幕府においての頼家の訴訟親裁を停止され、北条時政ら十三人の合議で諸事を裁決することを定めた。これに対し頼家は、これに反発して小笠原長経、和田朝盛、比企三郎、中野能成、細野四郎の若い勤従を通さなければ目通りを許さないとした。その後の頼家の「乱行」について『吾妻鏡』は語っている。
安達景盛の件。同年七月十六日、三河国の駅家で室平八郎重広が武威を振るい、はかりごとを廻らしているとの事で、安達景盛が糾弾する為に三河国に向け出発した。景盛には京から招いた美しい妾女がおり、留守を狙い頼家はその妾女を召し連れてくるよう命じる。景盛出発後、無理やり、笠原長経宅に住まわせた。二十六日には御所に召し、妾女に今後はこの御所内に住むよう命じた。長経、朝盛、比企三郎、能成、細野四郎以外この御所に参ることを禁じる。八月十八日、足立景盛は鎌倉に戻り、所々を捜索したが室重広がすでに逃走して行方が分からず戻って来た事を報告した。この様な出来事は主従関係上まれにある出来事であった。翌十九日、ある者が安達景盛は頼家を恨んでいると言う讒言(ざんげん)があり、頼家は、長経、朝盛、比企三郎、能成、細野四郎の軍兵に景盛を誅殺するよう命じ、鎌倉中の武士が騒然となった。尼御台所政子は盛長(景盛の父)邸を訪れ、二階堂行光を使者に頼家に向かわせ、「景盛は頼朝が特に情けをかけた者で罪状をお聞かせ願えれば私が速やかに訪ね対処し、事情を問わず誅殺されれば必ず後悔されます。それでも追討されるならば私がその矢に当たりましょう」と促し、頼家は追討を止めている。同月十日、正子は、安達景盛邸を再び訪れ、昨日の行き過ぎた頼家を抑えることは出来たが今後、老齢になる政子は、これ以上頼家を抑えることは出来ず、景盛に野心がない旨の起請文を書かせ、頼家に献上した。そこで政子は「昨日の件に対しあまりにも人の道に反し、天下を守護する事は出来ず、政治に飽きて民の愁を分かろうともせず、姑楼で楽しんで顧みないからです。また召し使う者と言えば賢人ではなく、多くは佞臣(ぬいしん)の類であり、先人(頼朝)は、しきりに温情を施され、常に座右に招かれていました。しかし今は恩賞もなく...末代であっても、秩序が乱されるようなことは無い」と諫める言葉を尽くされたと言う。
梶原景時の件。同正治元年(1999)九月二十五日、結城朝光が御書の侍において「私は、忠臣は二心に使えないと聞いている。特に幕下(頼朝)より厚恩を賜り、亡くなられたときに遺言の為に出家遁世(しゅっけとせい)しなかったことを非常に後悔しており、また今の世情を見ると、薄氷を踏むようなものだ」と語ってしまった。梶原景時が、この事を知り、頼家に朝光の「忠臣は二心に使えず」と、他の御家人達と実朝を将軍に擁立しようと考えていると讒言する。
阿波の局(政子の妹)から讒言の事情を聴いた朝光は狼狽し朋友であっつた三浦義村に相談した。「事は既に重大で、文治以来の景時の讒言により命を失った者、職を失った者、恨みを持つ物は多い。世の為、君の為にも影時を退治しなければならないと、しかし合戦にならないよう宿老らと談合すべきである」と語り、和田義盛、足立長盛を呼び寄せ状況を語り、文筆に優れ、景時に恨みを持つ中原仲業を呼び、仲業は手を打って引き受けた。同月二十八日、頼朝以来忠功を尽くした六十六名の御家人の中で仲業が訴状を読み上げた。十一月八日、六十六人の署判押された訴状は義盛と義村が大江広元に手渡した。広元も景時の讒言は承知であったが頼朝ありき時から共に親しく奉公をしてきた間柄であり、罪科に処されるのは不憫に思い、和平の策を考えていた。同月十日、御所で広元は義盛に会い、義盛は訴状に対し頼家の意見を聞いたが、広元は「まだ言上していない」と答えた。義盛は「...景時一心の権威に恐れ庶人の憤りを放置するのはどうして公平と言えようか」。広元は「恐れていない。ただ景時の滅亡を気の毒に思うだけだ」。義盛は「恐れていなければ何故数日が経つのに言上しないのか、今はっきりと返答たまわりたい」と叱責した。広元は「言上する。」と言って場を離れた。十二月十二日、広元は訴状を持参し頼家は枚葉を見て景時を呼び出し、是非を申し述べよと下した。景時は訴状に対し何も弁明する事が出来ず、子息、親類を率い相模国一宮に下向して謹慎する。一度鎌倉に戻り許しを求めるが、頼家により追放され、正治二年(1200)正月二十日に京の貴族を頼り、上洛の途中駿河国の清見関で地の侍に討たれ梶原氏一族は滅んだ。慈円は『愚管抄』で景時を死なせたことは頼家の失策であると評している(梶原景時の変)。
(写真:ウィキペディアより引用 畠山重忠公史跡公園 重忠像と畠山重忠公と畠山重忠公碑)
畠山重忠の件。正治二年(1200)五月二十八日、畠山重忠が奥州合戦の恩賞として与えられた陸奥国葛岡郡で、新熊野社の社僧同士の間で土地の境界争いが生じた、重忠に再挙を求めたがそれを辞退し、三善康信を介して頼家に裁断を委ねた。頼家は、即時に係争地の絵図に墨で線を引き幕引きを図ったという。頼家の乳母は比企能員の妻(頼朝の乳母・比企尼の娘)で、武蔵に所領を持つ比企と畠山は、目立った動きはなかったが、対立的関係であった事が窺える。当時の「乳母」との関係は実母以上の関係で乳母の夫「乳母夫」と共に一族で主人を支え得るのが通常であった。乳母の子供たちは「乳母子」「父兄弟」として主人の臣従として仕えた。その関係上このような態度を示したのかもしれない。
蹴鞠に没頭の件。頼家は政務を怠り、蹴鞠に没頭する。建仁元年(1201)八月十一日鎌倉に大風が襲い鶴岡八幡宮寺の回廊なども転倒する被害に襲われた。穀物が損害する中、頼家の避難は高まった。同月二十二日の蹴鞠会で江名太郎、後の三代執権北条泰時が秘かに親しく付き合う中野能成に頼朝を例に挙げ諫言を申すように求めている。十月六日、北条泰時は、伊豆北条で昨年農作物に被害を受けた窮民支援の為に米を与え飢餓から農民を守るため向かった。建仁二年正月二十九日、藤原親能の屋敷で蹴鞠の会を催すはずであった。政子は「源氏の遺老の新田義重が亡くなり、まだ二十日も満たないのに遊行されるのは人の誹り(そしり)を招き、よろしくない」。頼家は「蹴鞠については、世の人の誹りは問題ではありません。」と言ったが、結局、会は取りやめになったと言う。
城長茂の乱。城氏は、平氏の平維茂以来越後国で栄えた名族である。治承・寿永の乱で平氏側に付き、平家滅亡後に梶原景時に庇護を受けていた越後の住人で、建仁元年正月三日に城長茂は、頼家の梶原景時への裁定に不服を感じ在京中の小山朝政邸を襲撃、防戦に遭い退却する。その後、土御門天皇のいる仙洞御所に向かい閉じられた門前において関東追討の宣旨を求めたが勅許は下らず、その後、蓄電する。二月三日に鎌倉幕府に飛脚が着き状況と後鳥羽院の長茂追討宣旨が伝えられた。
長茂は、畿内御家人の捜索において、同二十二日、吉野の奥で討たれ、その後の乱は越後の長茂の甥の城資盛と叔母の坂額御前等の城一族が越後国蒲原の鳥坂城で反乱を起こす。佐々木盛綱に雪解けを待ち四月に越後国の御家人を集め討伐するよう命じられた。資盛は城に立てこもり、兵は僅か千足らずであり、五月になり戦闘が開始され、五月九日城は落ちた。坂額御前は弓の名手であり、やぐらに登り御家人たちに矢を射とめた。しかし幕府軍の矢が膝に当たり負傷、捕縛される。資盛は、その後逃走して消息不明となり、名族の一つが、滅びた。
六月二十八日、頼家の所望で大倉御所に引き出された。まだ傷が癒えない坂額であったが、その態度はまったく媚びへつらう事が無く、勇散な男子と比べても決して引けを取らない様子であった。ただし顔立ちは後宮にあっても良いほどであったと言う。翌二十九日、甲斐源氏の一族で強弓の名手、阿佐利与一義遠が頼家に預かりを願い出た「越後の因人の女の配流先を定められるのであれば、あえて預かりたいと思います」。頼家が「坂額は並ぶもののない朝敵である。おおかた望み申すというのは思惑があるのだろう」。義遠は、「まったく特別な思惑はありません。ただ同心の契りを交わり、元気で力強い男子をもうけ、朝廷を守り、武家を助ける奉る為です」。そこで頼家は「その女の容ぼうは良いが心の武勇を考えると、だれが愛らしく思うだろうか。義遠の考えは、まったく世間の人の好むところではない」としきりに揶揄し、許された。義遠は坂額を得て、甲斐国に下向した。
阿野全成誅殺の件。建仁二年八月、頼家は征夷大将軍となる。しかし神事は代役を立て、狩りや蹴鞠の会が連日続いた。梶原景時が誅殺された後、頼家と北条氏との関係は悪化していく、頼朝の時代には、弟でありながら身を潜めていた阿野全成(源義経の同腹兄)が北条氏に近づいていった。阿野全成の妾(妻)は千幡(後の実家)の乳母、阿波局(北条政子の同腹妹)である。建仁三年(1203)五月、叔父にあたる安房全成を謀反人の咎で捕縛、殺害した。・阿波局も逮捕しようとしたが政子がこれを拒否する。永井道子氏の小説『炎環は、阿野全成と阿波局のこの事件を題材に描いてた。頼家は、三月頃から病気になりすぐに回復し、この事件があった。しかし、七月半ば過ぎから再び病にかかり八月には危篤状態になる。これにより相続問題と幕府重臣の中での力関係を巡る計略が始まるのである。
『吾妻鏡』には、この様に頼家の罪業が記されているが、全てを鵜呑みにする事は出来ないと思う。読者が判断することも歴史の面白さである。 ―続く