(写真:ウィキペディアより引用 源頼家像今日と建仁寺所蔵江戸時代作、伊豆市修禅寺にある源頼家の墓)
建久三年(1192)三月後白河院が崩御し、十三歳の後鳥羽親政が始まり、源頼朝は同年六月征夷大将軍に補任された。朝廷内で九条兼実と対峙する村上源氏の庶流である源(土御門)通親は、後白河の寵妃丹後の局高階栄子に近づき、栄子所生の皇女宣陽門勤子(せんようもんきんし)を後見した。そして後鳥羽天皇の、乳母刑部卿三位藤原範子(はんし)を妻に迎え入れ連れ子の在子(ざいし:法勝寺執行・能円の子)を養女にし、後鳥羽天皇のもとに入内させていた。
(写真:奈良東大寺)
頼朝は、親幕派の兼実と距離を置き、建久六年(1195)二月に東大寺落慶供養で頼朝が政子・大姫・頼家を伴って上洛した際に土御門道親や高階栄子(丹後局)に近づいた。三月二十九日に頼朝は丹後局を招き政子、大姫に対面させている。その時、砂金三百両、三十反白綾の贈り物とし、従者達までも引き出物を送ったとされ、大姫の入内画策を行った。九条兼実には馬二頭であったとされ頼朝の対応の違いを示している。佐藤進一氏は、晩年の頼朝は大姫が生んだ後鳥羽天皇の皇子を将軍に推戴し、自分や嫡子頼家が補佐するという構想を抱いていたではないかとしており、自ら樹立した史上初の武家政権を、伝統ある公卿政権の王権によって権威づけようとしたと考えられるが。建久四年(1193)の富士の巻狩りを行った事は、東国において御家人たちに対し将軍としての示威行為と共に将軍後継を頼家に示したものと考え、また今回の上洛に頼家も同行させているため朝廷においても嫡子であることを認知させようとしたと考えられ、佐藤氏の考察に疑問を持つ。私見であるが、大姫の入内で王子が生まれれば、外祖父として大きな権力が生じ、公武協調体制のもと東国において朝廷からの権威を得、朝廷への影響力を高める事で東国の独立性が一層担保することが出来る事が頼朝の構想だったと考える。また、自身が樹立した東国の武士政権、将軍職を放棄する等は考えられない。
土御門道親は、丹後局の連れ子・在子を養女にして入内させた。在子・承明門院は、建久六年(1195)末に為仁を産む。翌年十一月に道親は兼実を建久七年の政変で失脚させた。頼朝の大姫は建久八年七月十四日に早拠し、工作は失敗する。大姫は享年二十歳であった。頼朝は、続いて次女三幡・乙姫の入内工作を行い女御の称を与えられ、正式な入内を待つばかりとなるが、その日を見ることなく頼朝は急逝した。建久九年(1198)十二月二十七日、頼朝は、稲毛重貞が亡くなった正妻(北条時政の娘)の供養のために橋を建立し、その供養に出席した。そして、相模川で模様された橋供養からの帰路体調を崩し落馬したとされる。この橋供養は、稲毛重貞(後の畠山重忠の乱において幕府に讒言した人物)が時政の娘婿で、その正妻が亡くなり供養のために橋を建立したという。その正妻は北条義時の同腹の妹であり、義時も供養に参列していた。正治元年(1199)正月十三日、落馬からわずか十七日で頼朝が急去する。享年五十三歳だった。頼朝が建久十年一月十三日に死去した後も、三万の入内工作は続けられるが同年三月に高熱を発し病に倒れ六月三十日に姉の大姫と同様に早拠し、享年十四歳であった。
(写真:京都御所)
朝廷は、建久十年/正治元年(1999)一月二十六日、「前征夷大将軍の遺跡を相続し、その家人・郎従らに命じ以前と同じく諸国の奉行をするように」と宣旨が下され頼朝の嫡子・頼家に頼朝の跡を継がせた源頼家は先月二十日に左中将に転任されている。そして、建仁二年(1202)七月二十三日、鎌倉幕府二代将軍、鎌倉殿として征夷大将軍に叙任された。任官に対し二年半が経過したことは、位階がまだ低くかった事で、従五位右近衛権少将から左中将に転任し、時期を置いた事と、全国的な警察権を掌握する日本国惣追補使として朝廷は難色を示したことである。征夷大将軍は、蝦夷討伐軍の司令官として、臨時にその地域の軍指揮と支配する裁量権が与えられるが、平時においては名誉職的要素が大きい令官下の官職であった。しかし、日本国惣追補使として任命されている。
頼家は古今に例を見ない武芸の達人とされるが、『吾妻鏡』は、北条氏により編纂されたことで、頼家に対しては、厳しく批判的に記述しており、蹴鞠に熱中し数々の「乱行」を繰り返したとされ既に人身が離反したことを示し、頼家暗殺を正当化しようと記載されている。しかし、当時の他の資料を見ると九条兼実の日記『玉葉』や慈円の『愚管抄』の記載の中では、「乱行」の記載は、見られない。わずか頼家の記載は、九条兼実の日記『玉葉』に正治二年正月二日条では、北条時政は頼家の弟千万(後の実朝)を将軍に擁立したと報告したことが記載され、慈円の『愚管抄』の記載の中で梶原景時を死なせたことは頼家の失策であると評している。
頼家は、頼朝が建久十年一月十三日に死去した後も、三万の入内工作を続けるが六月三十日に姉大姫と同様に早拠し、頓挫してしまった。頼朝・頼家は源(土御門)通親と高階栄子に翻弄され続けた事になる。正治元年(1999)四月一日、これまで政所の付属機関として多くの訴状の対所が行われたが門注所を独立させ、三善康信を執事(長官)として御所の外郭に建てられた。正治元年四月十二日、朝廷の宣旨により頼朝の嫡子・頼家が頼朝の跡を継承した後、わずか三ヶ月で北条正子は頼家の訴訟審裁を停止し、幕府においての頼家の訴訟親裁を停止され、北条時政ら十三人の合議で諸事を裁決することを定めた。その十三人は、公文所別当・大江広元、問注所執事・三善康信、公文所寄人・中原親能、政所家令・二階堂行政、侍所所司・梶原景時、公文所寄人・足立遠元、三河守護・安達盛長、常陸守護・八田知家、信濃 上野守護・比企能員、伊豆 駿河 遠江守護・北条時政、寝所警護衆・北条義時、相模守護・三浦義澄、侍所別当・和田義盛らにより合議による処置がとられた。その他の者は訴訟について頼家に取り次ぐことを禁止することが定められ、これが十三人の合議制であるが、実際には十三人による合議はほとんど無かった。また、十八歳の頼家も補佐する建前で顕示されたと考えられるがが、この十三人が政権内で特権的な地固めになった事は明確である。
頼家の訴訟親裁停止については『吾妻鏡』に明確な記載は無く、その後の「乱功」を後事談として記載している。頼家は、独自性を打ち出し門注所の独立、五月には御家人の兄弟間での争われる訴訟に就き和解を命ずる宣言。田数にして五百町を超える所領を持つ裕福な御家人から超過分を取り上げ貧しい御家人たちに再配分という徳治主義的な政策を立てている。しかし、十三人の重臣たちや所領恩給で拡大した東国の武士にとっては許される事ではなく大江広元がこの政策に異を唱え、三善康信の調停においても頼家は意志を変えなかった。そしてこの政策は結局実現することはなかった。これらの頼家の政策は戦時体制から平治体制の移行期を示し、武士から公卿・貴族的な思考の変化が認められる。そして、その後十三人の重臣たちはその後、激しい権力闘争に入っていくことになる。 ―続く