鎌倉散策「武士の世」九、比企の乱 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 二代将軍、源頼家は、建仁三年(1203)三月に病気になるが、すぐに回復した。その後阿野全成を謀叛の罪で誅殺がおこなわれた。再び七月半ば過ぎからは急病になり、八月には危篤状態となる。これにより相続問題と幕府重臣の中での力関係を巡る計略が始まるのである。 

 比企の一族は武蔵国比企郡(現、埼玉県比企郡と東松山市)を領し、比企郡の豪族で、比企達宗の妻は源頼朝の乳母が比企尼である。源頼朝の伊豆配流時から挙兵まで、息子(甥であったが後養子になる)の能員(よしかず)を介して米潮を送など生活に必要な援助を約二十年間行った。能員は、頼朝の信任が厚く、側近として仕え、頼家の乳母も比企能員の妻(渋河兼実もしくはミセヤノ大夫行時)を当てた。頼家の乳母に他に選ばれたのは比企尼の次女(河越重頼室)、三女(平賀義信室)そして、梶原景時室が選ばれている。比企能員は娘を二代将軍頼家の側室とさせ、若狭局として子息一幡を生み、能員は将軍家外戚となる。また、人望も高く、他の御家人との姻戚関係も多い。当時の「乳母」との関係は実母以上の関係で乳母の夫「乳母夫」と共に一族で主人として支え得るのが通常であった。乳母の子供たちは「乳母子」「父兄弟」として主人の臣従として仕えた。比企一族はこの典型的な一族である。

 

 『吾妻鏡』において健仁三年(1203)七月二十日、二代将軍頼家が重病になり、翌二十三日には危篤状態に陥る。二十七日条に「ご譲与の措置がおこなわれ、関西三十八ヵ国の地頭職を弟千幡(後実朝)に譲与、関東二十八ヵ国の地頭ならび惣守護職(頼朝が任じられた日本国総追捕使で軍事・警察権を管掌する)、長男の六歳になる一幡に与えられた。家督一幡の外祖父比企能員は、弟千幡に譲り渡したことを秘かに腹立たしく思い、外戚の権威を笠に着て、独歩の志を心中に抱き、叛逆を企て、千幡君と外戚以下を滅ぼそうとした。」と記載があるが、また九月二日条で比企能員は病状の頼家に「北条殿を、ともかく追討すべきです。そもそも家督(一幡)の他に、地頭職を分割されれば、権威が二つに分かれ、挑み争うことは疑いありません。子のため弟のため、静謐(せいひつ)を求めてのお計らいのようではありますが、かえって国の乱れを招く元です。遠州(時政)の一族が存在しては一幡の治世が奪われることは疑いありません」。頼家は能員を病床に招き、相談して追討の事を大片承諾した。とされるこの話を北条正子が障子を隔てて秘かにこの密事を聞き、時政に知らせた。時政はその夜、中原広元を屋敷に呼び、広元に何の話をしたか不明である。

  

 その後、能員のもとに「宿願により仏像供養の儀式を行います。おいでになり聴聞されますように。またこの機会に種々の事柄を話しましょう」と使いを出し「早々に参りますと」と返答した。能員の子息・親類らは諫めたが、「それでは家子郎従に甲冑を着け弓矢を所持されお連れ下さい」。能員は聞き入れず「そのような事をすれば鎌倉中騒ぎになる。仏事結縁のため、また譲与などの事について相談されたいのだろう」と郎党二人と雑色五人を連れ出かけた。時政らは甲冑を着け弓矢を構えて待ち構えていた。能員が総門に入ると天野遠景・新田忠常(曽我兄弟の仇討において兄の祐成を誅殺)により誅殺された。上記の記載が事実であれば、比企家の討伐に北条義時・泰時、武蔵守平賀朝政,小山朝政・宗政・朝光、畠山重忠、榛谷重朝、三浦義村、和田義盛・常盛・景長、土肥実平、後藤信康、藤原朝光、尾藤知景、工藤行光等多くの御家人が向かっており、事前の準備行動があったとしか言えない。また比企能員の行動に多くの疑問が残る。

 

 逃げ帰った従者から事情を聞き、能員の一族・郎従は小御所と呼ばれる一幡の館に立てこもり、政子の命令により比企一族に追討の命により軍勢が出された。比企一族の死をも恐れない防戦であったが、多勢の幕府御家人により笠原親景らは、その軍勢に対抗できず屋敷に火を放ち、一幡の前で自害、六歳の一幡も逃れることは出来ず、比企一族は滅亡した。蹴鞠の名手大輔房源性が、一幡の遺骨を探したが多くの死骸が混じり見つける事が出来なかった。一幡の乳母が最後に菊紋の小袖を召されていたと言い、ある死骸の横に、わずかな焼け焦げた小袖が残っており、菊紋がはっきり見て取れた。源性は骨を拾い上げ首にかけて高野山へ向かったと言う。比企家の屋敷跡に一族滅亡後も儒官として幕府に支えていた能員の末子、比企大学三郎熊本が、後に日蓮宗に帰依し、文応元年(1260)、日蓮(日郎とも)を開山として妙本寺が創建された。境内には、比企一族の墓と一幡の袖塚、そして若狭局の霊を慰める蛇苦止堂が今も残っており、例年九月一日に蛇苦止堂で例祭が行われている。慈円の『愚管抄』では、大江広元の屋敷で頼家は療養しており、広元に監視にされており、病状が悪化の中で頼家は出家して、あとは全て一幡に譲ろうとしていた。時政はこの譲与により比企能員の権勢が高まるのを恐れて能員を呼び出し誅殺したとされている。時政は能員誅殺を決めており、事前に準備を行う中で広元に頼家の状態と譲与の意向を聞きだし、能員誅殺を決めたのではないかと私は思う。若狭局が一幡を抱いて逃げたが十一月に北条義時により殺されたと記載されている。

 

 『愚管抄』は、「一人残った頼家は病状が回復し、比企の乱を知ったが頼家は激怒し太刀を手に取り立ち上がったが、政子がすがりついて捕らえ、護衛を付けて幽閉したときされている」。また『吾妻鏡』建仁三年九月五日条では、「御病気が少し回復し、かろうじて命を長らえられた。しかし若君(一幡)並びに(比企)能員が滅亡した事を聞かされるとその憂いと憤りに耐えきらず、遠州(北条時政)を誅殺せよと、密かに和田義盛及び新田忠常に命じられた。堀藤次血親家が御使者として御書を携え向かったが義盛は考えをめぐらして時政に献上した。そのため時政は親家を捕らえ工藤行光に誅殺させた。頼家はますます御心労になったという」。頼家の命に従う者は誰もおらず、九月七日、伊豆国の修善寺に移され、鎌倉殿の地位を追われた。七日に朝廷より十二歳の弟・千幡(実朝)が頼家に変わりに従五位下と征夷大将軍の宣旨が下され、同十五日鎌倉に宣旨の書状が届いた。時政等は頼家が存命中にもかかわらず朝廷に「九月一日、頼朝拍子千幡が跡を継いだ旨」を報告し、千幡の征夷大将軍の任官を要請していた。藤原定家の日記『明月記』や他の京都側の記録等で複数確認され、時政は幕府の実権を掌握し、北条執権体制が始まる。これらの事から比企能員の叛反ではなく、一幡が頼家から全て譲与されることを恐れ自身の権力への執着により北条時政の計略だったと考えられ、これが、比企の乱が北条時政により事前計画によって行われた証拠の一つである。

 

 十一月六日、政子の下に頼家からの書状が届き「深山に隠棲して、改めて退屈で耐えられないため日頃召し使っていた近習の参入を許してほしい」と書きよこしている。時政、政子、義時は幕政が揺れる中、温情は適当ではないと審議し、今後、書状を交わすことも禁じた。その任に命じられたのが三浦義村である。義村が北条の下知を頼家に伝えた事で、頼家や他の御家人に北条執権体制が固まった事を知らせる効果があり、三浦義村、和田義盛の多くの御家人達は、北条氏の権勢の道具にされていることを理解していなかった。武士は、この先の近世まで所領を奪い取る様に合戦を続ける。

 

 比企の乱後、北条時政、政子、義時は幕府の実権を掌握し、北条執権体制が始まる。頼家は元久元年(1204)七月十八日、北条義時の手勢に入浴中に襲撃され暗殺された。享年二十三歳。『吾妻鏡』元久元年(1204)七月十九日には、西の刻に伊豆の飛脚が(鎌倉に)到着した。「昨夜十八日に左金吾禅閤(源頼家)が当国の修禅寺で亡くなられました。」と申したという。『愚管抄』では「元久元年七月十八日、修禅寺において頼家入道を刺殺したのであった。急に攻めつけることが出来なかったので、首にひもを付け、ふぐり(急所)を取ったりして殺したと伝えられた。あれこれという言葉もないほどのことどもである。どうしてどうしてその返報が無くて済むことが在ろうか。人はどんなに勇々しくとも、その地からには限りがあるものである。」また乳母夫の梶原景時を滅ぼしたことを「頼家の失策であると思っていたところ、はたして今日に至ってこの様なことが起こったのである」と記している。

 古今例を見ない武芸の達人であったとされる頼家の暗殺には、壮絶なものであっただろう。頼家の祖父の源義朝も平治の乱後、坂東への逃走の途中、同じく入浴中に殺され、そして頼家の息子公暁により実朝が暗殺された。是も因果と言うべきか。政子は子を殺し、孫を殺した。時政は孫を殺し、曾孫を殺した。これが鎌倉での北条家対御家人の血塗られた殺戮の始まりであった。 ―続