先述した守護・地頭を全国に設けた「文治の勅許」とその前に発令された「寿永二年十月宣旨」の本当の意義を再確認させていただく。
源頼朝は東国武士団により平家を壇ノ浦で滅ぼし、日本の歴史を大きく変えた政治家であると述べさせていただいた。その政治手腕が、「寿永二年十月宣旨」「文治の勅許」に見出すことが出来る。治承四年(1180)四月の以仁王の令旨により頼朝が少数の東国武士団を率い挙兵した。この挙兵は、違法行為とする事には検討が必要であるが、同年十月二十日の富士川の合戦は、平家政権による朝廷政治であったが、東国における反社会的行為で反乱軍としてとらえられる。そして、それまでの論功行賞が十月二十日に行った。
伊藤俊一著「荘園」において、治承四年十月二十四日に挙兵から富士川の合戦までの勲功に対しての論功行賞を行い、恩賞として所職を用い、敵側に加わった武士の所職を没収して味方に分け与えた。それは、平家の諸士が在地領主として有していた荘園の下司職の荘官や公領の郡司職・郷司職である。これは、当時としては、違法行為で、寄進型荘園(免田型荘園・領域型荘園)の領家型荘園においては、荘園管理の下司職と領主(貴族・寺社)、本家(天皇家)の構造により形成されていた。領家型荘園の下司職の任免権は、領家や本家にあり、公領の郡司職・郷司職の任免権は国司や治行国司にあっためである。頼朝が恩賞として所職を与えることが違法行為で許されるものではない。
木曽義仲が寿永四年五月十一日、倶利伽羅峠で、また六月一日には、加賀国の篠原合戦で平家の軍勢を破り、平家一門は、京都から安徳天皇・建礼門院、三種の神器を伴い西走した。七月二十八日には、木曽義仲・源行家が入京し翌日、後白河院が木曽義仲に平家追討を命じ、八月十八日に平家所領のうち義仲に百四十ヶ所、行家に九十ヵ所を与えている。しかし義仲が怒涛の如く京への入京は、従後の兵糧対策が施されず、京での兵糧徴発を行い、また、義仲勢の兵の狼藉もあって朝廷及び貴族、庶民までもが反発した。頼朝は、義仲の早々たる入京と朝廷の対応を横目で見ながら、十月十四日に朝廷に恩賞として所職を用いた事への申し開きと今後の政務の対応を示すし、徳政の申請をおこなう。この対応は、いかに早く情報を集め、対処する対応を行った頼朝の政治的手腕の高さであった。
高梁一樹著『動乱の東国史 東国武士と鎌倉幕府』に特性がまとめられている。第一に、平氏が寺社の押領等したため、寺社側は必要不可欠な用途にも事欠く状態であるから、寺社に褒賞を与え、所領支配を復旧するよう宣下する事。第二に平氏が押領してきた王家や摂関家の家領荘園も頼朝が没収するのではなく、本来の支配関係を回復する事。第三に、平家に従った裳の者であっても投降してきた場合には殺害せず、配罪の軽重に応じ判断する事。平氏一門から与えられた経済的基盤の損失を復旧させることを最優先に行い、飢餓と内乱による京の貴族や寺社の貧窮を回復させる事を求めた。また、西走した平家を「謀臣」と決め付けながら、早期終結に向けた投降者への対応も見られ、討伐の大義名分を得て、木曽義仲との対比を示したとされる。これらの内容は、頼朝と内通する九条兼実の家領荘園の復活要求という現実的な具体的政策と政治工作が含められられた徳政と考えられている。
治承五年、西日本一帯は降水量が少なく、翌年の養和元年(治承五年:1181年)の養和の飢饉が起こり、この飢饉が治承・寿永の乱の勃発になった要因の一つとして考えられる。後白河院及び朝廷、貴族、寺社は年貢が滞り、窮迫していた。朝廷は、平将門のように東国の新王としての完全支配を恐れた。そして朝廷は、頼朝の徳政の申し入れで、頼朝の軍事力により従来通り年貢が入ることを切望した。
朝廷は、寿永二年(1183)十月十四日に平治の乱以降朝敵であった頼朝の本位への復帰を認め、「寿永二年十月宣旨」の発令を行う。その内容は、東海道と東山道の荘園・公領を領家・国司に従わせ、元の通りに年貢を納めさせるとともに、この命に服さないものは頼朝に沙汰し処置させることを命じたものである。朝廷は、この宣旨により東国から誰が年貢を納めようが、元通り領家・国司に従って拠出されさえすれば良いだけで、誰が荘園の下司、公領の郡郷司を勤めようが関知はせず、年貢の収納のみを伝えながら、頼朝の荘園に対する違法行為を普門にしている。さらに不満分子に対する強制力の行使を頼朝にゆだねた。そして、この宣旨により朝廷は、頼朝の軍事力を認め、義仲かを見限ったとも考えられる。しかしこの宣旨による頼朝の公認は、その後の武士の権力の拡大に力を注ぐ。
翌閏十月、備中国水島の戦いで平知盛・教経に敗れ、義仲は、行家と袂を分け、京に戻ると勢力を回復しつつある平家と少数ながら伊勢に拠点を置く頼朝の東国の軍勢に挟まれ孤立していく。義仲は同年十一月十九日、法住寺合戦を起こし、後白河院を幽閉し、正月には征東大将軍となって抵抗を示すが、源頼朝の代官とした源範頼・義経を大将とする頼朝軍と宇治川で衝突し、敗走した義仲は近江国粟津で討たれた。入京した、頼朝軍は後白河院の命で平家追討を行い、壇ノ浦で平家を滅ぼした。その恩賞として後白河院より平家没管領の五百ヵ所あまりの全てを頼朝に給与し、頼朝は領家職などを持つ巨大荘園領主となる。また、この所領は、後に鎌倉幕府が持つ直轄領で関東御領となる。また、頼朝の知行国として参河・駿河・武蔵を与えられ、後に九ヶ国になる関東御領になり、新恩給として御家人に所領地を与えていた。
寿永三年(1184)八月六日、一の谷の合戦後、異母弟の義経が朝廷から検非違使の任官を受け、鎌倉の許可なく受けたことに対し頼朝は激怒する。頼朝にとって御家人が直接朝廷からの任官を受ける事は、主従関係の崩壊の恐れをなす。それを認めると東国武士の主従関係を頼朝と朝廷の両者となるため「御恩と奉公」により御恩が頼朝による所領安堵で任官は頼朝の推薦によるものとしていた。そして、義経との関係悪化してゆく。義経は、後白河院より頼朝追討の宣旨を受けるが、挙兵に失敗。大江広元の進言(大江広元・三善康信・藤原俊兼・藤原邦通の文官集団が関わったとされる)により、義経追補の為、全国に「守護・地頭」の設置を朝廷に認めさせる内容であった。
頼朝は、北条時政に千騎を率いれ上洛させ、後白河院が義経に頼朝追討の宣旨を出した責任を問う脅迫的な交渉であったとされる。しかし、治承四年の「寿永二年十月宣旨」以降の二年間、治政と徴税が安定してきたことにより、頼朝の軍事力に頼得ざるをなかった。文治元年十一月(1185)十一月二十八日に「文治の勅許」により全国に「守護・地頭」の惣追補使も設置を認めさせることに成功し、日本国惣追補使として任命権を与えられた。この事により、全国を治安維持する警察権と、御家人の恩賞としての職種を得た。朝廷は、圧倒的な軍事力を認めざるを得なかったのかもしれないが、その軍事力により後白河院及び貴族の安定を担保したともいえる。しかし、後白河院が頼朝に奥州合戦の宣旨を与えなかったことや、奥州を平定した後の恩賞で征夷大将軍の官位を与えなかったことは、これ以上の頼朝の軍事力拡大に脅威を覚えていたためかもしれない。また、頼朝は、平家追討において弟範頼が九州遠征の際に兵糧獲得に苦労したことに対処するため各国及び地域に兵糧米として徴収できるよう定めている。この勅許により鎌倉幕府創立と考える事もでき、東国武士が西国の朝廷より勝ち取った独立の一部ではないかと考え、武士の権力への浸透は徐々に拡大していく。そこには、「寿永二年十月宣旨」「文治の勅許」により、その後、従来より安定した徴税及び年貢の搬送が行われ、朝廷は頼朝との信頼度を強めることになり、後白河院崩御して間もなく朝廷は征夷大将軍の官位を与えている。 ―続く