私達の世代では、源頼朝が征夷大将軍に任じられた時を鎌倉幕府の創立と学んだ。建久二年(1192)に「いい国(1192)造ろう鎌倉幕府」と幕府の設立(創立には諸説あるが)年を覚えた。しかし、この出来事は、日本史を変えたことは事実である。
幕府が御家人の「御恩と奉仕」において御恩は、所領支配を保証する本領安堵と所領を与える新恩給与を守護・地頭への補任によって行われ、奉仕は軍事力の提供と安定した所領経営であった。文治の勅許で得た全国の守護・地頭の設置は、御家人に直接的な所領の支給ではなかったが、御家人にとっては、所領の支給と同様の事であった。しかし当初は、頼朝配下の御家人の地頭の公認について荘園領主・国司の反発があり地頭の設置は平家旧所領の平家没官領や謀反人所領に限定されている。建久三年(1192)に後白河法皇が崩御すると朝廷の抵抗は弱まり、地頭の設置範囲は次第に広がっていった。
古代律令制において国司は貴族を中心に朝廷から四年から六年の任期で受領(任国に赴く)する。奈良時代には国司が、諸国における戸籍の作成(人頭税による)、租税の徴収、兵士の徴収、班田収授など行い、諸国を治めるために設置された。国司の身分は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官と史生(ししょう)以下の下役人で構成されていた。しかし、平安期に入ると、国司は京に在住し、代理人の目代を派遣して「遥任国司(ようにん):遙授(ようじゅ)」が 俸禄 ・ 租税 などの収入を得ている。そのため室町期には名目だけの役職となり、江戸時代まで続くが明治期に入り律令制度が無くなると廃止された。また、国司の下で郡の統治や租税の徴収訴状の対応を行う郡司も同時期に設置されている。国司の任期制とは違い、その地の地方豪族が世襲制で役職に就いた。しかし、朝廷は一部の特定した豪族が勢力を強めないように持ち回り制なども行うが租税確保を強化するため郡司に与えられていた権限を国司に移行し、郡司の役職も名目のみの職に転化していった。
文治の勅許において全国に守護地頭が設置されるが、その目的として源義経の追討と諸国の治安維持であった。守護は、任命国の軍事・警察権を掌握し、大番役催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕の大犯三カ条の仕事と任地国の御家人とは主従関係を持たず、監督・管理を行う職種である。任命国は領地の支給ではなく、名誉職でもありながら兵糧米の支給を受けていた。後の鎌倉末期・南北朝期には、守護が任地国の荘園を侵略し自身の領地として国中の地頭、荘官、武士たちを支配するようになる。そして室町期には守護大名、そして戦国大名へと成長していった。
地頭職は、所領の直接的な支給ではなく軍事・警察・徴税権を担保し、土地や百姓を自己の者にして所領管理と支配の権限を認めた物である。しかし、地頭の中から国司や荘園領主から荘官、郡司、郷司、保司として任命される者も少なくなかった。幕府及び国司・荘園領主から二重支配を受けていたとも考えられ、所領をめぐる所務沙汰(紛争)の際では、幕府の任じた地頭の地位だけでは不十分の場合があったとされる。幕府創立初期において地頭職を任じられた武士は、現地事情と識字、行政に疎い東国武士であったため、自身で遠隔地の荘園管理を行わなければならず、年貢運搬、荘園領主間の交渉、年貢の決解・算用ができる有能な現地沙汰人を探し出す必要があった。
地頭の補任権・解任権は幕府だけが有したため、後には、地頭が様々な理由をつけ荘園領主・国司の年貢の滞納・横領を行う。荘領・公領においても勧農(農業政策の一つで農業振興・奨励を意味する)を行い、管理支配権を徐々に高めていった。また、それらの行為で訴訟にも発展し、解任される事もあり、畠山重忠は代官による狼藉で解任されている。両者間に紛争が生じると毎年一定額の年貢納入や荘園管理を請け負う地頭受けを行うようになり、不作の年には約束額を領主・国司に納入しなければならない危険性は生じるが観農の実施により収穫量をあげ、利益を搾取して荘園領主・国司を徐々に横領していく。それでも約束額を納めない地頭がおり、荘園・公領自体を地頭と荘園領主・国司で年貢を折半する中分(ちゅうぶん)や両者の談合(話し合い)で、決着する和与中分、荘園・公領に境界線を引き完全分割する下地中分(したじちゅうぶん)があった。幕府も年貢未納の地頭に対し三代執権北条泰時の「御成敗式目」には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職の解任を行う条文も記されている。また、地頭の居館(堀内:堀之内)の周辺に直営地として、平安・鎌倉期においては年貢・公事は免税とされ、地頭の有する下人・所従又は小作人に耕作させ、その収入はすべて地頭の物となった。
地頭は本来、現地という意味を持ち在地による荘園・公領の管理・治安維持を任務とするため、多くの地頭は財務治在住による在地管理を行わなければならない。しかし有力御家人達は幕府の役職を持ち鎌倉に在住しなければならず、そうした御家人は自身の一族、親族また家臣に赴任させる事もあった。また、一族、親族に譲渡する場合もあり、御家人の勢力を強めた一方、家内での紛争の一因となったとされる。しかし、この地頭職の解任を後鳥羽院が幕府に要請してきたことが鎌倉幕府の明暗をかけることになった。 ―続く