鎌倉散策 「武士の世」四、征夷大将軍 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 司馬遼太郎『街道をゆく四十二 三浦半島記」で「頼朝は、確かに只一人で日本史を変えた。また史上最大の政治家ともいわれる。ただその偉業の割には、後世の人気に乏しい。頼朝は自分自身の成功に酔わなかった。常に政治計算をした。その数式に合わないとなると、大功を持つ弟の義経さえ罪なくしてこれを追補し殺させた。」と記述されている。ここで司馬遼太郎は、源家の武士の棟梁である頼朝を政治家と表現していることに興味深く、同感である。

 源義経に対し日本人の判官贔屓によるものが多きが、流人として扱われた頼朝が武士の棟梁として、朝廷と交渉するうえでは、絶対的に東国武士団の独立性を維持するには武力が必要であった。武士としての総大将・源義経は、京都に育ち奥州藤原氏を頼り、武士としての天才的な能力を源平合戦で発揮する。しかし、政治に関しては全く理解できていなかった。また、頼朝にとっては、東国武士団の棟梁として、天才的能力を発揮する義経の存在は自身を脅かす天災であったとも考えられる。

 

 源義経が奥州藤原氏を頼り、藤原泰衡により討たれ、頼朝は、宣旨を受けずに奥州討伐を行う。完勝というほどの合戦に勝利し、そして文治五年九月には奥州を平定した。朝廷は頼朝に対し褒賞として官位を検討する。建久元年(1190)十一月二十四日、頼朝上洛時の権大納言、右近衛大将を与えているが、これらの任官は公卿が行う職で、特に右近衛大将は天皇を護持する官職で、京都に在住しなければならない役職であった。同年十二月四日に両職を辞任し、鎌倉に戻った。頼朝が目指していたものは、武士の棟梁としての統治権を認めさせる大将軍であったと考えられる。東国の武士は貞持流平氏、良文流平氏・藤原秀郷流藤原氏、頼義流源氏の武将が多く存在し鎮守府将軍の末裔であるため、これらを臣下に置き、また滅ぼした頼朝にとっては、源頼義の後継者として鎮守府将軍を超える権威が必要で「大将軍」の称号を望んだとする説がある。

 

 征夷大将軍は令官下(りょうかんげ)という律令の令制に規定のない新設された官職であり、律令体制官制に捕らわれず、現実的な政治課題に柔軟的、かつ即応的に対応する目的で八世紀前期から中期にかけて設置された。「征夷」は蝦夷を征討するという意味で、朝卯化時代・奈良時代に鎮東将軍・持節征夷大将軍・持節征東将軍・持節征東大使・征東大将軍等さまざまであったが奈良末期の延暦十年(790)七月十三日、大伴弟麻呂が「征東大使」に任命され、延暦十二年(792)二月十七日、「征夷使」に改められた。「大使」は「将軍」を意味し呼称された。「日本紀略」に「延暦十三年(794)一月一日に征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜る」と記され、これが所見である。天皇から初めて征夷大将軍に任命された軍事指揮官であった。その次に任命されたのが大伴弟麻呂の副使(副将軍)の坂上田村麻呂で延暦十五年(796)十月二十七日も鎮守府将軍に任じられ蝦夷での戦争指揮を行っている。翌延暦十六年、征夷大将軍に任命され胆沢(岩手県奥州市胆沢)の阿弓流為(アテルイ:八世紀末から九世紀初頭古代東北の蝦夷の族長)を倒し東北地方全土を平定し勇名を馳せる。次に文室錦麻呂が征夷大将軍を任じられた後は途絶えて、平安中期藤原忠文が平将門を討伐するため征東大将軍に任ぜられた。そして、平安末期に源(木曽)義仲は征東大将軍に任じられている。

  

 頼朝は、平家政権、奥州藤原氏を滅ぼし武家政権の幕府を創始した事で「大将軍」の称号を望んだとされるが、朝廷は、建久元年(1190)十一月二十四日、頼朝上洛時の権大納言、右近衛大将を与えている。それは後白河法皇があえて与えなかったという説もあり、建久三年(1192)三月十三日に後白河法皇が崩御され、朝廷は直ちに頼朝に征夷大将軍の任官を模索する。九条兼実の計らいがあったとされるが、同年六月に頼朝は、朝廷から征夷大将軍に任じられた。

 奥州藤原氏は鎮守府将軍の地位を得て朝廷の支配が及ばない陸奥国、出羽国における軍政との形で地方統治権を認められ百年の間奥州を支配した。征夷大将軍は辺境常備軍の意味を持ち、また、臨時遠征軍としての司令官という性格を持つため在京の必要性が無く、地方政権の首領として位置づけられた。したがって「大将軍」が付いた征夷大将軍は、鎮守府将軍よりも格上の官職で当然、地方統治権を有する。『山槐記』建久三年(1192)七月九日条に頼朝の征夷大将軍任官の経緯が記されている。鎮守府将軍、大将軍、征東大将軍、征夷大将軍などが挙げられたが、大将軍は前例が無く、藤原氏が鎮守府将軍、木曽義仲は征東大将軍を受け、朝廷はそれを凶例とし、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例として、征夷大将軍の称号を与えることに決定したと記されている。

 

 征夷大将軍の任官により東国武士の棟梁たる鎌倉殿という私的地位の確立。守護(追補使)・地頭の全国への設置により軍事警察権を掌握する日本国惣追捕使・日本国惣地頭の候的地位の獲得(文治の勅許で得られている)。右大将として朝廷から認知された家政機関の政所などの公的機関に準ずる扱いを受ける権限をすべて纏あげて公的に裏付けられた一体的地位とするのが征夷大将軍職と考えることが出来る。源頼朝は、河内源氏嫡流ではあるが、平治の乱以降流人として過ごし、建久二年(1192)七月十二日、即位した後鳥羽天皇により征夷大将軍の任官を受け、鎌倉に留まり続けて朝廷からの公認を受けた武士政権として一定の独立性(朝廷との二重政権)を獲得したのである。

―続く