平安末期から鎌倉期初期の武士の様相を見ると、「御恩と奉公」の原理が東国武士を鼓舞させた原動力であった。御恩は所領安堵による奉公、そして奉公の功績により新補所領の獲得であった。
東国武士団は強かった。その理由として、西国は牛の文化、東国は馬の文化と言われる。西国は平安期より但馬で牛の飼育・生産が行われ公卿たちの移動手段として牛車が使われた。牛を東国に運ぶのは、移動が遅く急峻な東国の道を進むのには適さなかった。東国では、馬の生産・飼育に適した土地があり、上野の牧、奥州では名馬が生産され、西国に送られている。現在も人の食生活にも影響を残すのが、西は牛、東は豚を使用するカレーライスや肉じゃがに入れる肉が違う。西国は。平安期から牛の生産が行われていたため、明治以後、食肉として使用されたが、東国では、牛の生産に馴染みがなく、生産地として適していなかったため、第二次大戦後の食糧危機において馬に代わり豚が生産されたのである。
平安期から鎌倉期にかけての東国の武士は、食生活の違いがその強さにあったとも考えられ、西国においては、仏教の教えで殺生が禁じられ、魚以外のたんぱく質を摂取する事はなかった。しかし東国において武士たちは、雉や鹿、ウサギと言った動物性たんぱく質を狩りにより摂取していたために体力差が生じるのは当然である。
(写真:ウィキペディアより引用 富士川)
『平家物語』の富士川の戦いで、その強靭な体力差と精神力の差が物語る一面がある。平家の大将平維盛(清盛の孫)は、東国出身で平治の乱では源義朝に仕え、その後平家の家人となった武士・斎藤実盛に「お前ほどの強い弓を引くものは、東国にはどのくらいいるのか」と尋ねた。実盛は「私を強弓引きとお思いになっておられるが東国には私くらいの射手はざらにおります。馬に乗れば落ちたためしはございません」と答えた。さらに「東国武士は、戦となれば、親も討たれよ、子も討たれよとばかり、屍を乗り越え戦い続けます。ところが西国の武士は、親が討たれればやれ供養をせねばと戦いをやめ、子供が討たれれば、嘆き悲しんで戦いをやめてしまいます。兵糧が無くなればまず田を作り、夏は暑いの、冬は寒いのと言って戦うのを嫌います。東国では全くそのようなことはありませぬ」と語った。富士川の戦いでは、逸話として武田義信の軍勢が平家の背後を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れ、富士沼の水鳥の大群が反応して一斉に飛びだった。『吾妻鏡』には「その羽根音はひとえに軍勢の如く」と記され、『平家物語』や『源平盛衰記』では、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れ逃げまどう姿や、他人の馬に乗り逃げる者、杭に繋がる馬に乗りぐるぐる回る者、そして集められた遊女たちが哀れにも馬に踏みつぶされたとの記載がある。『玉葉』には、この富士川の戦いにおいて源頼朝の軍勢が四万騎、平維盛の軍勢が二千騎と戦力が記載され、圧倒的な軍勢に対する恐怖感はあったと考えられるが、しかし東国武士の勇猛さは、治承・寿永の乱で証明される。その勇猛さは、体力や精神構造だけではなく、「御恩と奉公」の原理が東国武士を駆り立てた。
武士にとって最大の恩賞を受け取る事は、戦士ではなく、合戦での先陣を取る事と名のある武士の首を討つ事であったため、小族の武士達にとっては、戦場は恩賞にありつく格好の場であった。また、傷を負う事も恩賞に値するため全身全霊をかけて戦う。そのため戦士もあり得るが、大きな犠牲の一つとして遺族には恩賞が与えられる。しかし、戦に負けてしまえば、恩賞にありつくどころか、敵に土地を奪われ、敗北は死よりも恐ろしいものであった。
(写真:京都宇治川 宇治川先陣の碑)
寿永三年(1184)一月、有名な「宇治川の先陣争い」は義経軍の佐々木高綱と梶原景季が先陣を争った。景季が高綱より一段ほど先に進み、高綱は景季に「腹帯が緩んで見えますぞ、お締め下さい」とい言う。景季は、左右の鐙(鐙)を踏み緩め手綱を愛馬の「磨黒」のたてがみに投げかけ、腹帯を解き締め直した。その間に高綱は景季を抜き去り愛馬「生食」と宇治川に打ち入り、騙された景季も「磨黒」を宇治川に打ち入れた。景季は「功名をあげるため、失敗なさるな。川底には大綱が仕掛けてあるぞ」と叫ぶ。高綱は太刀を抜き、「生食」の足にかかった大綱を打ち切り進み、宇治川の対岸に乗り上げ、高綱が宇治川の先陣となり、「我こそは宇田天皇の九代代目の後胤、佐々木三郎秀吉の四男佐々木四郎高綱、宇治川の先陣」と名乗った。その後、圧倒的な兵力の差で義経軍は宇治川を渡り、怒涛の如く京に突入する。
寿永三年(1184)正月二十日、頼朝は弟・範頼と義経に六万騎を与え宇治川と勢田(瀬田)で木曽(源)義仲と衝突した。『平家物語』『源平盛衰記』には畠山重忠は義経のからめ手に属し五百騎を率いて馬筏(うまいかだ)を組んで真っ先に宇治川に入ったが、馬を射られ徒歩にて渡河していた時、馬が流された大串重親が重忠に掴まってきたため大力の重忠は、重親を対岸に放り投げ、重親が他力本願での徒歩立ち一番乗りの名をあげ、味方方から嘲笑をかったという。
『平家物語』『源氏盛衰記』の一の谷の合戦でその名が知られる。寿永三年(1184)二月七日、午前四時に義経が選んだ精鋭七十騎が一の谷の裏山鵯越に到着し、午前六時に武蔵国大里郡熊谷郷(埼玉県熊谷市)の熊谷直実が子息直家と郎党一人の三人組で、また、多西群船木田平山郷(東京都日野市平山)の平山季重が一の谷の海側の道を平家館沿いに先陣を切り、大声で名乗りを上げ平家勢に襲い掛かった。直実の子直家は負傷し、季重の郎従は若くして討ち死にした。この時、先陣を争った武蔵の小族である熊谷直実は、萌黄匂の鎧を来た平家方の将と思われる武者が海へ馬を乗り入れようとしているのを見る。直実は武者に近づき「さてこそよき敵」と叫び、与して首を討とうとしたが、十六、七歳の若武者で、先ほど負傷した子息・直家と同じ年頃であった。直実は「なお名乗れば助けよう」というが、その若武者は「汝のためにはよい敵ぞ。ただ首を討て」と言い、味方の近づくに連れ、自分が助けたとも、しょせん誰かの手に討たれるだろと、意を決して若武者の首をあげた。それが清盛の甥にあたる敦盛であった。『平家物語』がかたる敦盛最期である。小族の熊谷直実は大功をあげる。直実についての詳細は、また期会を得て記述したいと思うが、熊谷直実は東国武士の典型と言った武士で、勇猛で武勇には優れていたが、短気で口下手な武士であった。後に、『吾妻鏡』建久三年(1192)十一月二十五日、伯父の久光直光との相続争いで、頼朝の面前で口頭弁論が行われた時に頼朝の質問にうまく答えることが出来ず、自然に質問が直実に集中すると、直実が憤慨し、「梶原景時めが直光を贔屓にして、良い事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているも同然だ。この上は何を申し上げても無駄な事」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ出し、坐を発ち、刀を抜いてもとどりを切り、出家逐電してしまったと記述があり、頼朝はたいそうあっけにとられたと言う。
(写真:ウィキペディアより引用 畠山重忠像)
奥州合戦では『吾妻鏡』八月九日条に阿津賀志山の戦いで三浦義村、葛西清重、工藤行光、祐光等七騎が陣を抜け出した。翌朝、大軍と同時では険しい山を越えることが難しいため、先駆けを行おう。それを知った重忠の郎従が注進するが「すでに先陣を任された上は重忠が向かわぬうちの合戦は、すべてが重忠一身の勲功となる。しかも先述を進もうとするものを妨げることは武略の本意ではないし、また我が身ひとりの賞を願うようなものである。ただ知らないふりをしているがよい。」と記している。この戦いで重忠が勝利し、藤原泰衡は平泉を焼き逃亡。奥州藤原氏は滅亡した。
東国武士の純朴さと恩賞にこだわる執念を表わした話であるが、鎌倉末期から南北朝・室町期にかけて武士たちは、戦において勝敗の行く末を見て、勝ち組に与する寝返りを行い、したたかに生存することを覚えていった。 ―続く