治承・寿永の乱で東国武士は、朝廷の宣旨を受けて源頼朝の代官・源範頼、義経が上洛し木曽義仲、そして平家を倒したが、この本質は、武士の棟梁を源家の源頼朝を頂点に東国武士、及び武士団が自主独立権を得る先駆けであったと考える。頼朝が、幕府を鎌倉に置き、平清盛が京都で平家政権を得て公卿政権の継承を行った事の違いに在り、その理由であった。
源頼朝は、公家社会から武士社会へと変遷させていく。この事実は、大化の改新後、天皇を中心に公地公民が原則の律令制が用いられ、大宝元年(701)大宝律令制定されて以来、およそ五百年後に楔(くさび)を打った。東国の武士一族・武士団は、朝廷と対等に話ができる棟梁を待ちわび、寿永二年(1183)春、以仁王の平家討伐の宣旨を受け源頼朝が挙兵する。そこに治承・寿永の乱において頼朝と主従関係を持った御家人達の東国武士団は寿永三年(1184)一月二十日に官軍として、粟津の戦いで木曽義仲を討った。
寿永三年年八月二十九日に平家追討師の官符を賜り、律令制のもとで太政官感が管轄下の諸官庁・初国衙に正式な公文書である官符の命令書を出すことが出来る。同年十月六日、公文所を開き大江広元を別当に任じた。公文所は後の鎌倉幕府の政務と財政をつかさどる政所に改名されている。二十日には訴訟を司る門柱所を開き三好康信を執事とした。またこの時期に二階堂行政、平盛時などの京都の有能な中下級官人(文民)を取り入れ、幕府初期官僚組織を形成させている。鎌倉幕府創設が、この年とする説もある。頼朝の御家人の武士団は、朝廷の権威をうまく活用し、東国の武士による幕府体制の構築を目指すのである(この時期に鎌倉幕府創設とする説もある)。そして、平家追討の宣旨を受け頼朝の御家人である東国武士団は、平家を壇ノ浦で倒し滅亡させた。
しかし、平家滅亡の最大の功績者であった義経が、自由任官の禁止令に違反し、内許を得ずに後白河院から義経が検非違使・左衛門少尉の任官を受けたる。任官を受け、鎌倉の許可なく受けたことに対し頼朝は激怒し関係が悪化した。従者・郎党を持つ懃問であればこのような規制は一般的であった。頼朝にとって御家人が直接朝廷からの任官を受ける事は、主従関係の崩壊の恐れをなす。それを認めると東国武士の主従関係は頼朝と朝廷の両者となるため「御恩と奉公」により御恩が頼朝による所領安堵で任官は頼朝の推薦によるものとしていた。幕府は朝廷との関係と東国を領域とする幕府支配の固有性を維持するためには重要であった。後白河法皇に任官の挨拶に行った義経に「御共(おとものえふ」として同行した重頼の弟・師岡重経も兵衛尉に任官している。また京に在住していた佐藤忠信、師岡重経、渋谷重助、梶原友景・景貞・景季中村、山之内藤導経俊、八田知言え、小山朝政ら二十余名が任官を受け、頼朝は任官を罵り東国への帰還を禁じた。東国の武士にとっては、無位無官がほとんどで、土地に執着し、所領安堵を賜る事や勲功による新領が与えられることが第一の御恩であった。まして任官ともなると大変な名誉なことであり、喜び勇んだであろう。しかし任官を受けた武士は翌年二月二日に配下の御家人の任官返上を行っている。
源義経は、後白河院より頼朝追討の宣旨を受けるが、挙兵に失敗。大江広元の進言により、義経追補の為、全国に「守護・地頭」の設置を朝廷に認めさせる内容であった。それは、北条時政に千騎を率いれ上洛させた脅迫的な交渉であり、文治元年十一月(1185)十一月二十八日に、文治の勅許により全国に「守護・地頭」も設置を認めさせることに成功する。この事により、全国を治安維持する警察権と、各国及び地域に兵糧米として徴収できる為、御家人の恩賞としての職種を得た。
文治元年(1185)十一月二十九日、朝廷は源頼朝に日本国惣追捕使・同惣地頭に任じた。また、十二月十七日、頼朝は、義経に味方した公卿を解官の要請を行い解官させる。また九条兼実以下十人の議奏公卿を要請。京都守護を頼朝の妹婿一条能保に改め、後白河院の制肘する朝廷人事への介入と朝廷と頼朝との意思疎通を制度化した国家意思決定の改革を行った。これを根拠に鎌倉幕府成立とする説が現在有力である。そして、文治五年七月十九日、後白河院の宣旨を得ぬまま独断で陸奥国の藤原泰衡追討に鎌倉を出発し、八月には、奥州藤原氏の軍勢を破り、九月には平定した。
朝廷は頼朝に対し褒賞として官位を検討する。建久元年(1190)十一月二十四日、頼朝上洛時の権大納言、右近衛大将を与えているが、これらの任官は公卿が行う職で、特に右近衛大将は天皇を守ると言う事は京都に在住しなければならない役職であった。同年十二月四日に両職を辞任する。同月十四日、頼朝卿を出発し二十九日に鎌倉に帰着している。建久二年一月十九日には、前右大将政所を開設し、御家人に与えた下文を回収して政所化分を与えることを定めた。頼朝が目指していたものは、武士の棟梁として主権を認めさせる征夷大将軍であった。建久三年(1192)三月十三日に後白河法皇が崩御され、六月に頼朝は、朝廷から征夷大将軍に任じられた。私が中学・高校で習った鎌倉幕府創立、いい国作ろう鎌倉幕府である。 ―続く