鎌倉散策 「武士の世」一、侍と武士とは何か | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 武士の都、鎌倉に住み、中世史を学ぶ中、特に鎌倉新仏教の臨済宗と侍・武士について学ばざるを得ない。侍と武士とは、いったいいかなる者か。古代、中世、近世において、その身分と役割は少しずつ変遷していくことを念頭に置いて考える必要がある。

 

 侍の語源は多くあるが、主に「さぶら・う(さぶらふ)」からきている。身分の高い人や敬うべき人の傍に控える。御使いする。また、宮中など尊い場所にいる伺候(しこう)する、従う等が挙げられる。わが国の、古代から中世においての貴族や諸大夫に仕える位階六位までの下級技能官人層(侍品:さむらいほん)の呼称であった。また、そこから発生した侍の別名が武士である。位階六位までと言う事は、本来、朝廷では庶民を指している。その武士の語源は、「やまぶし(山伏)」や「のぶし(野伏)」の上略と考えられ武士は当て字とされる。

 武士は奈良時代では「もののふ」と呼ばれ、朝廷に仕える「文武百官」の事であった。十世紀かの平安期から十九世紀の江戸期まで戦闘員、戦闘を家業とし家系を持つ者を指す。平安期において侍(さぶらうもの)の呼称が発生し、やがて、「もののふ」が武士、武者とも呼ばれ「勇散な人」「つわもの(兵)」といった意味で用いられる。同義語として武者があり、「武士」に比べ戦闘員的もしくは修飾的意味合いが強くする場合に用いられた。鎧武者、影武者、若武者、女武者、落武者等。また武者絵、武者修行、武者震い等が挙げられる。したがって、侍・武士は、大和言葉に漢字が用いら、当て字として日本語に置き換えられた同義語である。しかし武士、その後多用されている様子が窺える。

(写真:ウィキペディアより引用 笠懸)

 平安期に、侍・武士は、貴族や朝廷の警護を担当する軍事貴族や京武者等が出現した。また、臣籍降下した桓武平氏、嵯峨源氏、藤原氏が、各地域の在庁長官とし任官したことで、その子孫たちがその地に留まり、その地を治める介・掾・目(国司は四年任期)等を世襲した。また、藤原姓を名乗る者が地方豪族や、桓武平氏、嵯峨源氏の庶流の両者が、地方の開拓・開墾を担う者が武士へと移行していく。所領を持った地方豪族間や同族でも所領争いが頻発し、戦闘員や戦闘を家業とし家系を持つ武士も現れた。

 開拓・開墾した所領は、荘園制度の確立により、租税が高く、それぞれの農地を領家(貴族や寺社)に寄進し、管理権を得て懸命に守った。そのさまを、一所懸命と言い、一所である農地を、命を懸けて守ると言う事である。十一・二世紀に使われていた言葉が今も使われている事に日本人の気質や文化形成に用いられ事によると考える。地方豪族の武士にとっては、土地がすべてであった。寄進した荘園領主の気分で管理権も失う事もあり、顔色を窺う為に献上品の提供なども行われた。先述したように武士は、貴族や諸大夫に仕える位階六位までの下級技能官人層(侍品:さむらいほん)の呼称であり、本来、朝廷では庶民を指す。そして、土地に執着して、少しでも権威にあずかろうとしたものである。

(写真:ウィキペディアより引用 流鏑馬)

 当時の地方豪族・武士の相続は、子息及び娘にも相続が与えられ、特に当主の妻が、相続人として、また家政についても優遇すべきことが多かった。平安末期には相続による所領の配分で所領が縮小するのに対し、領地と勢力が弱まっていくことになる。より一層の領地獲得のため紛争、又は恩賞にありつこうと奔走する。鎌倉期には地方豪族が形成した武士団では家督を長男ではなく、有力な子息に相続させることも多々あった。それにより同族間での紛争も絶える事が無かった。しかし、地方豪族の宗家の主人を頂点に家長・家人・家子の家族共同体を作り家産官僚制、官司請負制の特徴を持つ武士団が形成されていく。

 東国の武士団は、西国、畿内の武士に比べ自らが土地開拓・開墾してきた時期が遅く。京都より遠方にあるため、自主独立の気配が色よく残っていた。そのため地方豪族の同族等が武士団を形成し、争乱による弱肉強食的な解決方法を行いつつも姻戚関係を持ちながら、互いの紛争を避けるように努めた。荘園の管理者である地方豪族の武士は、国司、荘園領主になると紛争による解決を用いることが出来なかった。平の忠常、前九年、後三年の役がそうであるように軍事貴族(河内源氏、桓武平氏、藤原氏庶流)の追討使による征圧が行われる。その軍事力として用いられたものが、東国、坂東の武士団である。彼らは、主従関係の構築を行い、恩賞目当てに従軍することになる。そのことは、西国が、東国を支配すると言う体制を作り上げていく。保元・平治の乱では顕著に表れてくる。

 

 平安末期には、慈円の『愚管抄』巻四、「武者の世」においてには、「大治から久寿までの間は鳥羽法皇が白河法皇の跡を継いで世を治めになったが保元元年(1156)七月二日、鳥羽法皇がお亡くなりになってのち、日本国は始まって以来の叛乱というべき事件が起こって、それ以後武者の世になってしまったのである。」と記述しており、保元の乱を転換期としてとらえている。そして、武士が、その軍事力をもって貴族支配の社会から平家の棟梁平清盛が、武士として太政大臣に就き、治承四年(1180)二月に高倉天皇に言仁親王(安徳天皇)に践祚させ外祖父として執政した。しかしこれは、武士から公卿の地位を取り入れ、従来の朝廷の政権を継続したに過ぎない。慈円の「武者の世」は、もうそこまでやって来ていた。 ―続く