畠山重忠は、治承・寿永の乱では常に先陣を務め多大な功績をあげた。また、頼朝に信頼を受け、奥州合戦には頼朝軍の先陣を務めている。剛力を以って武芸に優れ、清廉潔白な実直な性格により源頼朝の忠臣として励み、御家人の中でも武士の鑑と称えられた。『愚管抄』においても謹慎な人物であったと評されている。
文治五年(1189)、夏の奥州合戦においては、重忠は頼朝に信頼を受け、頼朝軍の先陣を務めている。『吾妻鏡』八月九日条に阿津賀志山の戦いで三浦義村、葛西清重、工藤行光、祐光等七騎が陣を抜け出した。翌朝、大軍と同時では険しい山を越えることが難しいため、先駆けを行おう。それを知った重忠の郎従が注進するが「すでに先陣を任された上は重忠が向かわぬうちの合戦は、すべてが重忠一身の勲功となる。しかも先述を進もうとするものを妨げることは武略の本意ではないし、また我が身ひとりの賞を願うようなものである。ただ知らないふりをしているがよい。」と記している。この戦いで重忠が勝利し、藤原泰衡は平泉を焼き逃亡。奥州藤原氏は滅亡した。
『吾妻鏡』文治五年九月七日条、宇佐美実政が藤原泰衡の郎従由利維平を生け捕りにした。梶原景時が尋問により取り調べたが景時の傲慢不遜な態度であったため由利維平は頑として応じなかった。頼朝は重忠に取り調べに当たるよう命じ、重忠は礼を尽くし接した。八郎はこれに感じ入り取り調べに応じ「先ほどの男(景時)とは雲泥の違いであると言ったことが記されている。
(写真:鎌倉二階堂 永福寺)
頼朝は、奥州で亡くなった数万の怨霊を慰め、三有の苦しみを救済するために奥州平泉で見た二階建ての大長寿院を模して鎌倉に建立することを決め、建立の地を二階堂と称し寺名を永福寺とした。『吾妻鏡』建久三年十一月十三日においても記載されており、永福寺の造営に関し、池の巌石の配置の力仕事を畠山重忠、佐貫寛剛、大井実治が行い、三人の働きぶりは既に百人の功績に匹敵し頼朝は何度も感心されたと言う。また建久元年(1190)十一月七日、頼朝が挙兵後、初めて入京した際には黒糸威の鎧を着て家子一人、郎等十人を引き連れて先陣を勤めている。同年十二月一日の頼朝右大将拝賀の随兵七人(北条義時、小山朝政、和田義盛、梶原景時、土肥実平、比企能員)に選ばれ参院の供奉を行い、重忠は鎌倉幕府において有力な御家人の一人となったことを示した。
建久九年(1198)十二月二十七日、頼朝は相模川で模様された橋供養からの帰路体調を崩し落馬したとされる。この橋供養は、稲毛重貞(後の畠山重忠の乱において幕府に讒言した人物)が時政の娘婿で、その正妻が亡くなり供養のために橋を建立したという。その正妻は北条義時の同腹の妹であり、義時も供養に参列していた。正治元年(1199)正月十三日、落馬からわずか十七日で頼朝が死去する。享年五十三歳だった。その頼朝死去の際に頼朝から子孫を守護するように遺言を受けたとされる。頼朝の死後、重忠の表立った行動の記録は少なiい。むしろ、鎌倉の執政について 関わりを持つべきでは無いと考えたのかもしれない。しかし、やがて急激な変化が流動していく。
(写真:鎌倉法華堂と源頼朝の墓石)
同年十月、結城朝光が「忠臣二君に仕えず」と何気なく発言したことが、梶原景時により二代将軍源頼家に讒言した。阿波局(北条政子・義時の実妹で阿野全成の妻)からそのことを知らされた朝光は三浦義村に相談し、和田義盛ら諸将六十六人の景時弾劾の連判状が作られた。北畠重忠も梶原景時に讒言を受けたこともあり、その連判状に名を連ねている。この連判状により将軍頼家から鎌倉追放を受け、翌正治二年(1200)正月二日、梶原景時は一族共に京に上るが、駿河国清見関にて近隣の武士により誅殺され滅亡した。
建仁三年(1203)には、将軍頼家の妻妾・若狭局(一幡の母)が比企能員の娘であり、頼家の死期が迫る中、頼家の子・一幡と北条が押す弟実朝をめぐる継承問題が発展した。比企能員の乱と称されるが、北条時政が仕組んだ誅殺であり、北畠重忠は、時政の娘婿であるため北条方に与し比企一族を滅ぼしている。将軍頼家は、奇跡的に病状が治まり、比企一族が誅殺され、妻・若狭局、子の一幡が亡くなった事を知り激怒する。北条時政の誅殺を命じるが、それに従う御家人はおらず、その後、伊豆修禅寺に幽閉され、北条義時により刺殺された。
(写真:ウィキペディアより引用 畠山重忠公史跡公園畠山重忠像、 畠山庄司重忠 月岡芳年画「芳年武者无類)
畠山重忠は、比企一族の滅亡により、さらに武蔵の国において多大な勢力を持つようになる。北条時政は、自身の勢力維持の為比企能員を誅殺し、次なる勢力を討つ標準を畠山重忠に定めた。北条時政は、後妻として牧の方を迎え二人の間には間に子息・政範が生まれていた。政子と継母・牧の方の関係は、治承四年の亀の前事件後、良好な関係ではなかったと考えられる。北条時政は、比企能員と同様に畠山重忠の勢力の拡大を恐れた。武蔵国の武士団の首領としての畠山重忠と嫡男重保は、北条時政の娘婿である武蔵守平賀朝雅との対立もあった。
元久二年(1205)六月二十一日、畠山重忠の次男の畠山重保は北条時政の後妻・牧の方も娘婿になった京都守護の平賀朝雅と重保との遺恨により、朝雅が牧の方に讒言(ざんげん)した。前年の元久元年十一月に実朝が京に正室を求める使者として政範らが選ばれ、上洛する際途中で病気になり、京に着いた後に急死する。この急死により京都守護朝雅が京に随行していた畠山重保に病気でありながら京まで来るよりも途中療養させるべきであったと叱責した。重保も、政範に療養を薦めたが、政範は、実朝から選ばれた事に対し使者としての責務を全うするため京都に急いだと説明した。朝雅と重保の意見の対立により遺恨を残し、畠山重忠の乱と牧氏事件へと繋がっていく。北条時政は子息、義時、時房を名越の自邸に呼び内々に畠山重忠の謀反の謀議を行った。当初、義時は重忠の謀反の審議を行うべきで、謀殺には反対であった。しかし、牧の方の強い訴求により義時は、それ以上逆らうことは出来なかった。義時はこの頃まだ江馬姓(北条氏の分家名)を称しており、北条氏の嫡男として処遇されていなかった。時政と牧の方のとの間に亡くなった政範がおり、牧の方が嫡男として処遇することを望んだとされ、この時も義時は、江間四郎義時を名乗っている。
(写真:ウィキペディアより引用 畠山重忠公墓所 埼玉県深谷氏畠山重忠公史跡公園、 畠山重忠公飛碑、神奈川県横浜市旭区)
時政の娘婿の稲毛重貞が御所に上がり、重忠謀反を訴え十四歳になる将軍実朝が重忠討伐を命じた。同二十二日、時政は重忠謀殺を行う手始めとして重保を鎌倉で謀反が起こったと呼び出され、討伐のために出向いた重保は、時政の命を受けた三浦義村が由比ヶ浜で騙し討ちにより誅殺された。重忠は鎌倉に変事があったと知らされ、急遽鎌倉に駆けつけるが、幕府軍の大軍に二俣川(現横浜市旭区)で遭遇し激戦の末、敗れ討たれた。武蔵の武士の首領であり、幕府に忠誠をつくした平姓畠山氏は滅んだ。
幕府軍の総大将であった北条義時は、父・時政に重忠の軍勢は平服で僅か百余騎の兵で、謀反ではなかった事に涙を流して報告した。『吾妻鏡』では、この様に義時が畠山重忠の謀殺に反対しているように義時を美談的に記載されているが、重忠を二俣川で討ち、その後の謀反では無かったにもかかわらず、所領を功勲のある御家人に賜っている。私見ではあるが、この事件により父・時政と同腹の姉弟の政子・義時は政治的対立を深めたと考えられるがが、全てが、あまりにも早急な対応と対処に疑問を持つ。政子による実朝の将軍として確立を行う為の謀略で、義時に北条家を継がせ、二代執権職を与えることで、北条政子が義時を動かし演出したと考える。それはその後に続く事件に象徴される。
(写真:鎌倉鶴岡八幡宮一ノ鳥居と由比ヶ浜)
同年七月八日、十四歳の実朝に変わり北条正子により畠山重忠や残党の所領を功勲のある者に賜った。同十九日、時政の後妻・牧の方が平賀朝雅を関東の将軍にして現将軍家を滅ぼそうとする風聞があり、実朝は義時邸に入り守護された。時政は同日六十八歳で出家をし、同時に出家された者は数え切れなかったと言われる。同二十日、伊豆の北条郡に追放下向した。北条義時がこの日、二代執権職を命じられ、中原広元、三善康信、和田景盛らによる審議で平賀朝雅の誅殺が決められ、同二十七日、京にいた平賀朝雅は謀殺されている。二俣川の戦いの一月後で、幕府内での畠山重忠の乱は、北条時政の誅殺であり、義時の関与を弁護しながら終息させた。
畠山重保の墓は若宮大路一の鳥居脇に宝篋印塔が祀られている。また、今小路の八坂社は畠山重保の屋敷の傍に建立されており、社の北西にある観音山の頂には「望夫石」と呼ばれる大岩があったらしい。畠山重保が北条氏の策謀により由比ヶ浜で討たれた際、重保の妻がこの岩から由比ヶ浜を望み、悲嘆にくれて亡くなり、石になったという伝説が残されている。
(写真:鎌倉 若宮大路一の鳥居脇 畠山重保の墓、宝篋印塔)
元久二年(1205)六月、畠山重忠の乱で北条氏に滅ぼされ、没落するが、北条義政が畠山の名を惜しみ足利義澄を重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻させ重忠の旧領と畠山の名跡を継承したとされている。秩父平氏の流れの畠山氏は、河内源氏の一系の足利氏一門として源姓畠山氏の名称が存続した。 ―続く