畠山重忠は父・畠山重能と母・三浦義明の娘の嫡男として長寛二年(1164)武蔵国男衾郡(おぶすまごおり)畠山郷(現:埼玉県深谷氏畠山周辺)に生まれ幼名は氏王丸とされる。畠山重能は、平治の乱以降、平家に帰属したとされ、治承四年(1180)八月十七日の頼朝挙兵時には大番役として京都に赴いていた。
(写真:畠山重忠公史跡公園 畠山重忠像と鵯越で馬を背負う重忠。画:歌川国芳、江戸時代。ウィキペディアより引用)
畠山重能が平家方に属し大番役で国を留守にしていたため、源頼朝の伊豆国にて挙兵に対し、重能の嫡男・重忠は、十七歳で一族を率いて平家方の大庭景親に与する。同月二十五日、三浦勢が豪雨の為に挙兵に間に合わず、丸子河辺りで頼朝が討たれたと言う誤報に対し、うな垂れ三浦に引き返す。途中の由比浦で畠山重忠と出くわすが、重忠の母が三浦義明の娘であったため、両者とも戦わず離れてゆく気配であった。しかし、和田義盛の弟上杉吉宗が間違って戦いを始めてしまい、重忠の軍勢に被害を与えた。同二十六日、重頼は同じ秩父一族の畠山重忠の要請で江戸重長、金子・村山等の数千の兵で三浦氏の本拠である衣笠城を攻め、三浦義澄の勢力を安房に逃すため三浦義明(享年八十九歳)は、少数の兵で戦い、衣笠城で討ち死にしている。
治承四年十月、頼朝は房総の安房国の安西氏・上総国の上総広常・下総国の千葉常胤等二万を超える軍勢を率いて下総西端の墨田川岸近くに接していた。『吾妻鏡』治承四年九月二十八日条に、「大庭景近の催促を受け、石橋山での合戦に及んだことはやむを得ない事であるが、以仁王の令旨の通り(頼朝に)従うべきである。畠山重能(重忠の父)・小山田有重が在京している今、武蔵国は汝が棟梁である。最も頼りにしているので近辺の武士たちを率いて参上せよ」と頼朝は秩父一族の切り崩しを図って重長に近隣の秩父氏の一族の葛西清重と豊島清元を使者として出した。
同年十月二日、頼朝の軍勢は、墨田川を渡り武蔵国に入る。同四日、長井の渡しで秩父平氏の畠山重忠が駆けつけ、河越重頼、江戸重長も参陣し、そして頼朝に帰服した。『吾妻鏡』十月四日条にて、彼らは三浦義明を討った者であり、三浦義澄以下子息や一族に「重長等は、源家に弓を引いたものであるが、(この様な)勢力のある者をとりたてなければ目的は成し遂げられないであろう。そこで、忠に励み直心を持つならば、決して憤懣を残してはならない。」と、あらかじめ三浦一党によく仰せられた。彼らは威信を抱かない事を申し上げたので互いに目を合わせ納得して席に並んだ。と記されている。翌五日、頼朝が武蔵国府(現:東京都府中市)に入ると在庁官人や諸郡司の統率・指揮や国務の諸雑事を差配・沙汰する権限を秩父平氏の嫡流の河越市ではなく江戸重長に命じた。秩父平氏の族的秩序に独自な楔(くさび)を打ち込み、その翌日に畠山重忠を先陣に江戸重長を側近として従えて相模国内に入り鎌倉入りを果たしている。『源平盛衰記』に重忠は先祖の平武綱が後三年の役で源義家より賜った白旗を掲げ帰参したことで頼朝を喜ばせたと記述がある。
畠山重能のその後は『平家物語』で弟小山田有重と平家の都落ちに従おうとして平知盛に東国への帰国を即されている。また『吾妻鏡』文治元年(1185)七月七日条では、前築後守平貞能が出家を行い宇都宮朝綱のもとにやってきて頼朝に降参人として許してもらう取次ぎを依頼している。朝綱は「私が平家に属し在京していた時、(頼朝が)義兵を集め挙兵されたと聞いて、参向しようとした時、前内府(平宗盛)はそれを許しませんでした。それなのに貞能は朝綱並び(畠山)重能・(小山田)有重等を許すように申してくれたので、それぞれ無事に味方に参り、怨敵平家を攻撃しました。…」そこで、今日、御ゆるしの御裁断があって、(貞能は)朝綱に召し預けられた。と記載され、平家化任平の貞能が重能・有重兄弟の帰国に追力したとしている。そして重能は、重忠が頼朝の御家人となると後事を託し隠居したとみられ、没年も知ることが出来ない。
(写真:宇治川と平等院)
畠山重忠はその後、御家人に列し、頼朝の大倉御所への移転や鶴岡八幡宮の参詣の警備等、また養和元年(1181)七月鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠が馬を賜る際に源義経と共に馬を引いたことが『吾妻鏡』に記されている。重忠は頼朝の舅・北条時政の娘を妻に迎えているが、当初、頼朝は同族の小山田氏を重用し重忠との待遇面で格差をつけている。これは河越氏と江戸氏の徴用と同じく、一族間で待遇に格差をつけることによる分断を図ったとする説を示す。しかし、畠山重忠は寿永の乱で活躍を見せた。
寿永三年(1184)正月二十日、頼朝は弟・範頼と義経に六万騎を与え宇治川と勢田(瀬田)で木曽(源)義仲と衝突した。『平家物語』『源平盛衰記』には畠山重忠は義経のからめ手に属し五百騎を率いて馬筏(うまいかだ)を組んで真っ先に宇治川に入ったが、馬を射られ徒歩にて渡河していた時、馬が流された大串重親が重忠に掴まってきたため大力の重忠は、重親を対岸に放り投げ、重親が他力本願での徒歩立ち一番乗りの名をあげ、味方型から嘲笑をかったという。また、『平家物語』では、京に入ると源範頼、義経、河越重頼、嫡男・重房、畠山重忠他数騎で後白河法皇が幽閉されていた六条西洞院に駆け付け仙洞御所に遷し、後白河法皇御簾越に拝謁して名乗りを上げている。『源平盛衰記』には重忠は三条河原で義仲の愛妾の女武者・巴御前と一騎打ちを演じ、怪力で巴の鎧の袖を引きちぎり巴は敵わないと見て逃げ出している。この戦いで木曽義仲は敗れ、同日、北陸へと落ち延びるが、途中の近江国粟津で討ち死にし、享年三十一歳であった。
寿永三年二月七日、一ノ谷の戦いで『平家物語』では義経の搦手に属し、『源平盛衰記』では、鵯越えの逆落としで馬が大切な事と可哀そうとの思いから馬を背負い駆け下ったとされ、一の谷にて平家を破った。後の源平合戦において『吾妻鏡』には、重忠の名は見当たらないが、義経に従軍していたと思われる。元暦二年(1185)三月二十四日、義経が壇ノ浦で平家を滅ぼした。
(写真:白拍子・静御前 ウィキペディアより引用 鶴岡八幡宮舞殿)
文治元年(1185)十一月十二日に後白河法皇より任官を受けたことで頼朝と義経との関係が悪化していく。源義経の謀反に連座し義経の正室が河越重頼の娘であったために嫡男重房と共に頼朝の命にて誅殺され、畠山重能は、「武蔵国留守所総検校職」は畠山重忠に移されている。『吾妻鏡』文治三年(1187)四月八日条では、源義経の愛妾・静御前が頼朝の命で、鶴岡八幡宮で白拍子の舞(静の舞)を披露させられ、工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を担当した。と記され、武芸と剛力の持ち主であるが、楽曲にも芸を持つ人物であった。
文治三年(1187)、重忠は伊勢国沼田御厨の地頭に任ぜられたが、九月に重忠の代官である真正の姦曲(かんきょく:悪だくみ)の為に伊勢太神宮の神人である長家が強く訴えたことから因人として千葉胤正に召し預けられた。重忠は代官の所業については事情を知らないと弁明したものの所領四か所を公収されたという。重忠は、これを恥じ絶食する。頼朝は、重忠のこれまでの功績を惜しみ赦免するが、重忠一族は武蔵国菅谷館へ戻ると侍所所司の梶原景時が謀叛の疑いありと讒言した。頼朝は重臣を集めて重忠討伐を審議するが小山朝政が重忠を弁護し、下河辺行平が使者として派遣される。行平から事情を聴いた重忠は自害を試みるが行平が押しとどめ鎌倉にて申し開きをするよう説得した。梶原の景時が取り調べに当たり、起請文を差し出すように求めたが、重忠は「自身には二心が無く、言葉と心が違わないから起請文を出す必要は無い」と拒否する。景時が、この事を頼朝に取り次ぐと、頼朝は何も言わず重忠と行平を召して褒美を与えたとされる。この時から、重忠は、以前に増して頼朝への忠義に励む様相を示した。 ―続く