鎌倉散策 坂東武士、七 畠山氏(畠山重能) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 秩父氏は、平良文(村岡五郎)の子・武蔵介・平忠頼と平将門の娘・春姫との間に生まれた平将恒を家祖とすし、そして武基―武綱―重綱と続く。秩父(平)重綱の長男、重弘で子の重能が畠山氏。次男、重隆の孫は河越氏。三男重遠は高山氏。四男重継は江戸氏を称し、坂東八平氏の一つ「秩父平氏」を形成して行った。次男、重隆の孫は河越氏。三男重遠は高山氏。四男重継は江戸氏を称し、坂東八平氏の一つ「秩父平氏」を形成して行った。

 

 秩父平氏の主として河越氏、江戸氏、畠山氏は、鎌倉幕府に翻弄された氏族ともいえる。河越氏の河越重頼は娘を源頼朝の命により嫁がせたが、源義経の謀反に連座して頼朝に誅殺された。江戸氏は、再挙した頼朝に参見し、頼朝に側近の位置を与えられ、『吾妻鏡』治承四年(1180)十月五日条、「武蔵国の国衙の様々な実務について、在庁官人や郡司らに申し付けて処理するように江戸太郎重長に仰せつけられた。」と記されている。頼朝が武蔵国府(現:東京都府中市)に入ると在庁官人や諸郡司の統率・指揮や国務の諸雑事を差配・沙汰する権限を秩父平氏の嫡流の河越市ではなく江戸重長に命じた。頼朝は、秩父平氏の族的秩序に独自な楔(くさび)を打ち込み、その翌日に畠山重忠を先陣に江戸重長を側近として従えて相模国内に入り鎌倉入りを果たしている。しかし江戸重長の嫡子・忠重は、『慶元寺本喜多見系図』によると承久の乱で従軍し京都・氏の戦いで討ち死にしたとされ、断絶したと考えられる。忠重以降の江戸氏の系譜については信憑性が無い。そして、頼朝の信頼を受け坂東武士の鑑と言われた畠山忠重は、頼朝亡き後、鎌倉幕府執権・北条時政に誅殺された。坂東武士は、時の政権に翻弄され没落へと追い込まれ、特に畠山氏はそうであった。

 

 秩父(平)重綱の次男、重隆が「武蔵国留守所総検校職」と秩父氏の家督を継ぎ武蔵国最大の勢力を有するに至ったが、家督継承をめぐって兄重弘と長男・畠山重能並び父重綱の後妻(源義平の乳母)との間で家督をめぐる対立が生じている。秩父(平)重綱の長男・重弘の長男・重能が畠山氏を名乗り、次男有重は小山田氏を名乗った。重能は、武蔵国男衾郡(おぶすまぐんごおり)畠山郷(現:埼玉県深谷氏畠山周辺)に所領を得ており畠山姓を称したことから始まり、畠山氏の家祖とされる。武蔵・上野は東山道の地域でもあり、伊豆・相模・房総の下総・上総・安房は東海道の国であった。源頼義に前九年、後三年の役に従軍するが、それ以降、北関東で独立性を強めた地域であり、源義朝の子・義平の代までは、河内源氏との主従関係は無かったようである。

 現在の南関東の武士を掌握し京都に戻った源義朝の後に京から北関東に移り勢力を伸ばす。義朝は弟義賢を牽制するため長男義平を自身の代わり鎌倉に下らせ勢力を維持させた。『平家物語』によると久寿二(1155)八月、義賢はその甥の源義平や畠山重能に大倉館を襲撃され義父の重隆と共に討たれている。畠山氏は、この戦いで勝利し秩父平氏の本拠であった大蔵の地を獲得し、族長権は獲得したと思われるが、「武蔵国留守所総検校職」に着いた形跡はなく、秩父重隆の孫である河越重頼に継承されている。『源平盛衰記』に源義平は、討ち取った源義賢の二歳になる駒王丸を探し出し必ず殺害するよう重能に命じている。しかし、重能は、その幼子駒王丸に刃を向けることを躊躇し、義賢の旧恩がある斎藤実盛に預け信濃国中原兼遠のもとに送り届けさせた。その駒王丸が後の木曽義仲であった。 

 

  

 保元元年(1156)七月に起こった保元の乱で畠山氏・小山田有重・三浦義明は、従軍していない。『保元物語』下巻、為義降参の事で、敗れた源為義に八男・為朝が「此儀然るべからず候。縦(たと)ひ下野守殿こそ親子の間なれば、たすけ申さんと給とも、天気よも御ゆるし候はじ。其故は、新院は正しく主上の御兄にてわたらせ給はずや。左府亦關白殿の御弟ぞかし。豈(あに)親とて罪科なからんや。義朝いかに申さるとも、立ちがたくこそ覚侍れ。御所勞(らう)なほりおはしまさば、只何としても関東に赴き、今度の合戦にのぼれりあわぬ三浦介義明、畠山庄司重能、小山田別當有重等をあいかたらつて、東国八ヶ国を官領して、しばしもましますべし。若(もし)京都より討手下らば、為朝一方承て、思うままに合戦してかならずば其時討死すべし。などかしばらく支(ささえ)ざらん」と三浦、畠山、小山田と談合し関東での抵抗を提案するが為義はこれを拒み投降、斬首に会う。 三浦氏、畠山氏、小山田氏は、保元の乱で義源朝に近く、保元の乱以前に義朝藤原信頼が武蔵国、稲毛荘立荘に携わり重能・有重兄弟も係わって

 平時元年(1159)十二月九日に起きた平治の乱では源義朝・藤原信頼が清盛に敗れ、義朝は東国に落ちる途中、尾張野間で長田忠致親子に裏切られ殺害され、義朝の子・頼朝が伊豆に配流された。『平家物語』『愚管抄』によれば、平治の乱では重能・有重兄弟が平家方に帰属していたとみられる。しかし三浦義明の嫡子、三浦義澄と三浦等の面々が義朝の長男義平の麾下十七騎に姿があった。 ―続く