鎌倉散策 坂東武士、六 江戸氏(江戸重長) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 秩父氏は、平良文(村岡五郎)の子・武蔵介・平忠頼と平将門の娘・春姫との間に生まれた平将恒を家祖とす。そして江戸氏は、桓武平氏良文流秩父氏の庶流であり、秩父重綱の四男・平重継を家祖とする。

 桓武天皇六世の将恒は坂東八平氏の家祖でもあり、正室の武蔵武芝娘との間に生まれた秩父武基と息子・武綱は、共に前九年の役に源頼義に従軍し武基は秩父別当に就任した。武綱も前九年の役で戦功をあげ頼義率いる軍の将であった摂津源氏の源有光の長女を妻としている。武綱は、後三年の役で、義家率いる軍勢の先陣を努めた事で功を得て、秩父氏はさらに発展して行き、秩父郡吉田郷の秩父氏館(吉田城)を居城とした。武綱の子息である重綱の代に入り武蔵国国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職(むさしこくるすいところそうけんぎょうしき)」に就き、武蔵国の在庁官人の長として国内の武士を統率・動員の権限を有し、一族はさらに拡大・発展する。秩父重綱の長男、重弘は畠山氏。次男、重隆の子・能隆は河越氏。三男重遠は高山氏。四男重継は江戸氏を称し、坂東八平氏の一つ「秩父平氏」を形成して行った。

 

(写真::衣笠城跡)

 四男重継は父重綱の武蔵国江戸郷を平安期の末(十一世紀)に相続して江戸貫主となり、江戸四郎と称し江戸氏を起こす。貫主は、惣領を意味し江戸氏の支配が兄弟であった事を示唆している。重綱は江戸の桜田(後の江戸城ん本丸、二の丸の周辺)に居館を構えたとされる。畠山重能の妻が三浦義明の娘とされるが、江戸重継の娘とする説もある。秩父氏の惣領は河越氏に移るが、相続問題等で秩父氏内での対立と抗争が生まれるが、平安期の末には、武蔵国において平家に家人として畠山氏、河越氏、江戸氏は連携し諸氏に対し対抗していくことになる。

 治承四年(1180)八月十七日、源頼朝が伊豆国にて挙兵し、平家方で同族の畠山重忠が、平家方の大庭景親に与し、鎌倉の由比浦で源氏方の三浦氏と合戦になり、同二十六日、重頼は同じ秩父一族の畠山重忠の要請に応じ一族の惣領家河越市と共に江戸重長、金子・村山等の数千の兵で三浦氏の本拠である衣笠城を攻め、三浦義澄の勢力を安房に逃すため三浦義明(享年八十九歳)は、少数の兵で戦い、衣笠城で討ち死にしている。

 

 治承四年十月、頼朝は房総の安房国の安西氏・上総国の上総広常・下総国の千葉常胤等二万を超える軍勢を率いて下総西端の墨田川岸近くに接していた。近隣の秩父氏の一族の葛西清重と豊島清元を使い、『吾妻鏡』九月二十八日条に、頼朝は秩父一族の切り崩しを図って重長に使いを送り、「大庭景親の催促を受け、石橋山での合戦に及んだことはやむを得ない事であるが、以仁王の令旨の通り(頼朝に)従うべきである。畠山重能(重忠の父)・小山田有重が在京している今武蔵国は汝が棟梁である。最も頼りにしているので近辺の武士たちを率いて参上せよ」と伝える。頼朝が人をたらし込める常套手段である。一方で同月二十九日条では重長が大庭景親に味方して今になっても来ないのではやはり追討すべきとして同じ秩父氏で頼朝方に付いた葛西清重に、大井の要害に誘い出し討ち取るように命じている。

 十月二日、頼朝の軍勢は、墨田川を渡り武蔵国に入る。同四日、長井の渡しで秩父平氏の嫡流河越畠山重忠が駆けつけ、河越重頼、江戸重長も参陣し、そして頼朝に帰服した。『吾妻鏡』十月四日条にて、彼らは三浦義明を討った者であり、三浦義澄以下子息や一族に「重長等は、源家に弓を引いたものであるが、(この様な)勢力のある者をとりたてなければ目的は成し遂げられないであろう。そこで、忠に励み直心を持つならば、決して憤懣を残してはならない。」と、あらかじめ三浦一党によく仰せられた。彼らは威信を抱かない事を申し上げたので互いに目を合わせ納得して席に並んだ。と記されている。

 

 翌五日、頼朝が武蔵国府(現:東京都府中市)に入ると在庁官人や諸郡司の統率・指揮や国務の諸雑事を差配・沙汰する権限を秩父平氏の嫡流の河越市ではなく江戸重長に命じた。秩父平氏の族的秩序に独自な楔(くさび)を打ち込み、その翌日に畠山重忠を先陣に江戸重長を側近として従えて相模国内に入り鎌倉入りを果たしている。河越重頼は、頼朝の乳母であった比企尼の次女を娶っており、比企尼は頼朝が伊豆配流後二十年に及ぶ生活の糧を提供し続け、猶子の比企能員をその役に従事させていた。また重頼はそのため比企尼の長女を娶った安達盛長や三女を娶った伊藤祐清と共に若くして配流中の頼朝とは親交があったが、頼朝挙兵時に平家方に付いた事が許せなかったのかもしれない。

 

(写真:京都 宇治川)

 江戸重長は鎌倉幕府御家人となり、文治五年(1189)の奥州合戦に従軍し、奥州藤原氏討伐に出陣する頼朝に従っている。鎌倉紀初期には重長の兄弟と思われる次郎親重・四郎重直・七郎重宗、重長の子と思われる次郎朝重の活動は見られ、『吾妻鏡』でも八郎太郎景益、七朗重保、七朗太郎重光、七朗太郎長元、七朗太郎長光の名が挙げられるが、記録・系譜で見る江戸氏の人物の位置づけは全く不祥である。重長の子と思われる忠重と河越重時・重員兄弟が元久二年(1205)六月の畠山重忠追討軍に参加している。また『慶元寺本喜多見系図』では忠重は、承久の乱で従軍し京都・宇治の戦いで討ち死にしたとされる。

 承久の乱後に新補地頭として江戸四郎茂持が出雲国安田相に下向した。その地で社家石清水八幡宮と対立、寛元元年(1243)に下地中分が記録されており、この出雲江戸氏は建武五年/延元三年(1338)の足利直義の下地状に見え、その家系は続いた。また、弘長元年(1261)十月三日には地頭・江戸長重が正嘉の飢饉により荒廃した江戸郷前島村(現:東京駅周辺)の経営が成り立たなくなり、北条得宗家に寄進して得宗被官となり、正和四年(1315)までに得宗家から円覚寺に再寄進されたことが記録に残されている。その後の系譜は様々あり、江戸重継・重長・忠重の三代以降の系図に信憑性がない。忠重の代で江戸氏は断絶した可能性もあり、「畠山系図」には、畠山重忠の曾孫(重長の妹が畠山重能の室とされることから)が江戸氏を継いだとされるが、信憑性に欠ける。

 

(写真:鎌倉鶴岡八幡宮 御鎮座祭)

 鎌倉幕府滅亡時に江戸氏庶流と思われる江戸氏は新田義貞の挙兵に加わらず坂東八平氏や武蔵七頭の武士団と共に足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)と合流し鎌倉攻めに参加した。南北朝期・室町期には足利勢に加わり幾つかの盛衰を繰り返したが、戦国期を経て徳川家家臣として続いた。しかし、これも江戸氏の正統を示す信憑性に欠けた物である。 ―続く