鎌倉散策 坂東武士、五 河越氏(河越重頼) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 源義朝は三浦義明の娘を妻にし、永治元年(1141)、長男義平が生まれ、後「鎌倉悪源太義平」と呼ばれ、京に戻った義朝の代わりに南関東の勢力を維持するため鎌倉に在住していた。後に三浦氏を支える三浦義明の次男・三浦義澄の甥にあたる。

 九寿二(1155)八月、源義平と畠山重能等が武蔵国比企郡大蔵(現埼玉県比企郡嵐山町)の大蔵館を襲撃し、秩父重隆、源義賢が共に敗れ敗死した。秩父平氏の本拠であった大蔵の地は畠山氏が獲得し、大蔵の地を奪われた重隆の嫡男・能隆は武蔵入間郡葛貫(現:埼玉県下呂山町)や河越(現:河越市上戸)の地に移り土地を開発した。葛貫(くずぬき)の別当と称していることから武蔵入間郡葛貫(現:埼玉県下呂山町)の葛貫牧(軍馬の飼育場)の牧長もしくは、国衙の別当職にあったと思われる。また、能隆の諱が秩父平氏の通字の「重」が無く、同族の父重隆を討った畠山重能の「能」が入っていることに対し、重能が烏帽子親なのか、襲撃後に重能の監視下に置かれていたとか、重能に対しての配慮など考えられるが定かではない。

 

(写真:ウィキペディアより引用 入間川沿いにある河越館跡 と河越市養寿院境内河越重頼の墓)

  河越能隆(葛貫能隆)は、嫡男重頼と武蔵入間郡葛貫や河越の地に移り河越館を新たな拠点として土地を開発した能隆は、河越氏の祖となる(父の重隆を祖とする事もある)。「武蔵国留守所総検校職」は、能隆が継承した記録は無く、秩父重隆が討たれた後、孫の河越重頼に継承されている。翌保元元年(1156)七月の保元の乱では、弟の師岡重経と共に源義朝に従い白川殿に夜討を参加している。『保元物語』上巻で「主上三条殿に行幸の事 附たり 官軍勢揃汰(せいぞろへ)の事」で義朝に相したがふ兵おおかりけり。と各武将を紹介している。「先ず鎌田次郎正清を始めとして、後藤兵衛實基。近江国には佐々木の源三、八島冠者、美濃国には平野大夫、…高家に河越、師岡、秩父武者、上総には介の八郎弘經、下総には千葉介經胤他と、「高家(高家)」として記載方法を区別して記載されている。

 

 平治元年(1159)十二月の平治の乱では、河越重頼、師岡重経が義朝に従軍したかは定かではない。源義朝が平清盛に敗れ、永暦元年(1160)三月に義朝の嫡子・十四歳になる頼朝が伊豆国流罪となった。河越重頼は、頼朝の乳母であった比企尼の次女を娶っており、比企尼は武蔵国の代官となった比企掃部允(ひきかもんのじょう)ともに京から領地に下り治承四年(1180)の秋までの二十年間、生活の糧を送り続けた。そのため比企尼の長女を娶った安達盛長や三女を娶った伊藤祐清と共に若くして配流中の頼朝とは親交があった。

永暦元年(1160)二月、平治の乱で勝利した平家は戦功として武蔵国が平清盛の知行国となり四男・平知盛が武蔵守となる。河越重頼の所領を後白河上皇に寄進し荘官となり、上皇がさらに京都の新日吉山王社寄進、新日吉山王社領の河越荘の荘官として再び勢力を拡大してゆく。これは、武蔵守になった平知盛に対し重頼の所領安堵策の一つであったと考える。平知盛は八年の間、知行国主として治めた。武蔵国は河内源氏の勢力が強い国であったが、知盛の武将としての才覚や人間的な魅力により、多数の平家家人として畠山氏、江戸氏、河越氏等を得ており、二十年に及んだ。

 

 治承四年(1180)八月十七日、源頼朝が伊豆国にて挙兵し、秩父平氏は、平家方の大庭景親に与する。同二十六日、重頼は同じ秩父一族の畠山重忠の要請で江戸重長、金子・村山等の数千の兵で三浦氏の本拠である衣笠城を攻め、三浦義澄の勢力を安房に逃すため三浦義明(享年八十九歳)は、少数の兵で戦い、衣笠城で討ち死にしている。九月、頼朝が安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを従え下総では二万騎以上の大軍に膨れ上がり武蔵国に入った。十月、河越重頼、畠山重忠、江戸重長は長井の渡しで頼朝に帰服し、鎌倉の地に入った。

 寿永三年(1184)一月二十日、後白河院の宣旨により源頼朝の代官として弟の源範頼・義経を木曽義仲追討軍として京都に向かう。河越重頼は嫡男重房と共に追討軍に参加した。京に入ると範頼・義経・重頼・嫡重房他数騎で後白河法皇が幽閉されていた六条西洞院に駆け付け仙洞御所に遷し、警護に当たっている。八月六日、一の谷の合戦後、義経が朝廷から検非違使の任官を受け、鎌倉の許可なく受けたことに対し頼朝は激怒する。頼朝にとって御家人が直接朝廷からの任官を受ける事は、主従関係の崩壊の恐れをなす。それを認めると東国武士の主従関係を頼朝と朝廷の両者となるため「御恩と奉公」により御恩が頼朝による所領安堵で任官は頼朝の推薦によるものとしていた。後白河法皇に任官の挨拶に行った義経に「御共(おとものえふ」として同行した重頼の弟・師岡重経も兵衛尉に任官している。この事について頼朝は「勘当を許して本領を返してやろうとしたものを、今となっては本領を返すことはできない」と罵倒した。「勘当」は。頼朝挙兵時に秩父一族が敵対したことをさすと思われる。同年九月十四、頼朝の命により重頼の娘(郷御前)が京に上がり、義経に嫁ぎ重頼は舅となった。

 

(写真:京都御所 紫宸殿)

 文治元年(1185)、頼朝と義経の対立が激化して行く中、義経が後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受けたことで、重頼も頼朝に敵視され、同年十一月十二日に河越重頼は嫡男重房と共に頼朝の命にて誅殺され、伊勢国の所領五ヵ郷を没収、他は重頼老婆の預かりとなった。「武蔵国留守所総検校職」は畠山重忠に移されている。また、重頼の娘婿の下河辺政義も連座して所領を没収された。文治三年十月五日、頼朝は重頼誅殺を「憐れである」とし河越氏本領の河越荘を重頼の妻・河越尼に安堵している。

 

 重頼の次男・重時、三男・重員は『吾妻鏡』において頼朝と二代将軍頼家の時代に記録は無く、三代将軍・実朝の代で元久二年(1205)六月二十二日条の畠山重忠の乱において北条義時率いる重忠討伐軍の中で確認される。重忠が滅びた後、武蔵国は北条氏が国司となり河越氏は代々その配下に置かれ、その後、家督を継いだ重時に将軍随幣として幕府の諸行事に参列している。弟・重員は承久三年(1221)の承久の乱で幕府軍として戦い戦功を立てた。嘉暦二年(1226)四月に重員が「武蔵国留守所総検校職」に補され、重頼誅殺の四十年後に河越氏が復権した。しかし、総検校職は形骸化かしており実権は無く、重員は国衙に関与した形跡はない。

 

 『吾妻鏡』承久三年五月二十一日条に大江広元が「上洛と決した後に日が経ったので、とうとうまた意義が出されました。武蔵国の軍勢を待つのも、やはり誤った考えです。日時を重ねていては武蔵国の者らであっても次第に考えを変えきっと心変わりするでしょう。今夜中に武州(北条泰時)一人であっても鞭を掲げて急行されるならば、東国武士はすべて雲が龍に靡くように従うでしょう」と記されている。これは、承久の乱での武蔵国武士団動員に際し、武蔵国衆は幕府に対し「変心」する可能性があることが示唆されており、幕府はかつて軍事指導権も有していた総検校職を伝統的在庁有力者である河越氏に再任することで強調し、武蔵武士団の再編成と支配を図ろうとしたと考えられる。総検校職は、家督を継いだ重時でなく弟の重員に与え勢力の分断も図ってもいる。総検校職は重員の子・重資に継承されたがその後官職の存在は明らかでない。河越氏は嫡流として重時の子・泰重、孫の経重と続き鎌倉で将軍随兵となり有力御家人の地位を維持した。

 

(写真:ウィキペディアより引用 新田義貞像)

 経重の長男・宗重は、豊後国の地頭として下向し、次男・貞重は元弘元年(1331)の元弘の乱で在京しており、六波羅探題滅亡時に自害している。その子・敬重は討幕側に転じ、武蔵七党と共に新田義貞の挙兵に加わり討幕に貢献した。その後、南北朝期に入ると様々な争乱に拘わり、貞治七年(1368)二月に河越氏が中核となって高坂と共に武蔵平一揆を指揮して、関東官領・上杉憲顕に反旗を翻した。河越館で数か月間、抵抗し激戦の末、上杉朝房に敗北する。南朝方の北畠氏を頼り伊勢国へと敗走するが、これ以降、平安期以来続いた武蔵国最大の勢力を誇った名族・河越氏は時を治めた源氏・北条・足利に翻弄され没落し行った。 ―続く