鎌倉散策 坂東武士、三 上総氏(上総広常) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 長元元年(1028)に起こった長元の乱で平忠常が源頼信に降伏と共に出家し、京に護送中に病死する。忠常の首を討ち取り京で晒されたが、降伏した者の首を晒すことが咎められ、その子・常将等が赦免された。その後、下総に戻り千葉介と号している。その常将の子が常長で前九年、後三年の役で源頼義・義家に従い戦功を立てたとされる。常長は上総国大椎に館を構え、さらに下総千葉郷に進出し千葉大夫と称され、常長の多くの子により房総平氏が形成されていった。次男・常兼が千葉氏の祖となり、五男・常晴は、上総氏の祖となる。上総氏の二代当主は長子・上総(佐賀)常家(上総氏では初代当主としている)が継ぎ、房総平氏代々の地である下総相馬郡では相馬五郎と称していた。常家は子を儲ける事なく死去したため、実子の常澄がいるにもかかわらず、父常家と子の常澄との折り合いがよくなかったようで、常家の弟・千葉常兼(千葉氏の祖)の三男・常重を養子として大治五年(1130)六月に家督を継がせ、上総権介の地位を継承させた。この事が房総平氏間での抗争の起因となっている。しかし、常重は下総国守藤原親通に冤罪による相馬郷を強奪された。義朝も房総に自己の勢力を伸ばすため常重の布施郷を奪取しているが、相馬御厨は千葉常重の子常胤の代になり義朝などの強硬な介入で解決された。坂東に赴任してきた源義朝に常澄は好機とみて取り入り、義朝の臣下の三浦義明の娘と常澄の末子金田頼次の縁組はその一環で、義明の子・三浦義澄の烏帽子親がこの常澄である。常澄にも子が多く上総氏内部でも抗争が起きていおり、常澄の八男が上総常広である。

(ウィキペディアより引用 上総広常)

 源義朝が育った地は三浦半島の沼浜(逗子沼浜)とされる。少年期に東国に下向し『天養記』において「上総御曹司」と称され房総の豪族上総氏からの庇護を受け育ち、父為義が安房国の丸御厨を伝領していたため、所領もあった事が窺える。 この東国において上総・常陸・上野は国の最高等級の大国(大国・上国・中国・下国)であり、大国は国主が親王任国とされていたため介が実質的な国府の長を務めていた。上総広常が上総介広常との呼称が用いられている。広常は鎌倉を本拠とした源義朝の郎党として保元元年(1156)の保元の乱で義朝に属し、平治元年(1159)の平治の乱では、義朝の長男源の義平に従い義平十七騎の一騎として数えられた。広常は当時二十歳を過ぎたところであったと思われる。平治の乱敗戦後、戦線を離れ、上総に戻り、平家に従った。父常澄が死去すると嫡男である広常と庶兄常陰や常茂の間で家督継承の内紛が起こり、頼朝挙兵時頃まで続いる。治承三年(1179)十一月に平家の有力家人伊藤忠清が上総介に任じられると広常は国務をめぐって対立が生じ、また下総国には平家姻戚の藤原親政が勢力を伸ばそうとした。

 

 『吾妻鏡』から読み取ると、治承四年(1180)八月に源頼朝が平家打倒に挙兵し、石橋山で敗れ、同二十九日、土肥実平と共に小舟で房総に渡る。九月一日、幼少時から仲が良かったとされる安房の住人安西景益(三浦義明の甥にあたるとされる)に頼朝が国中の一族と在庁官人を呼び集めるよう手紙を送り、同四日に景益一族と在庁官人に・三人を連れ頼朝宿所に参じた。頼朝が上総広常のもとに行くことを考えていたが、景益は「すぐに広常のもとにお入りになるのはよろしくありません。長狭六郎(長狭六郎常伴三日夜に頼朝宿所を襲おうと試みるが三浦義澄らに察知され討たれた)のように謀略を廻らすものはまだ多くいます。まずは使者を出して迎えのために参るようにお命じなるのがよろしいでしょう」と言い。上総広常には和田義盛、千葉常胤には安達盛長を遣わした。同六日、和田義盛に広常は「千葉介常胤と相談したうえで参上するつもりです」と答えた。頼朝は十三日に従う軍兵三百余騎と共に安房国を出て上総に赴くが、広常は軍師を集めているためしばらく遅れて参上すると位、千葉常胤は子息親類と共に源家に参ろうとした。ここで、下総の目代が平家方であり千葉常胤は、まず目代を誅殺し、同十四日に下総国千田庄の領家である判官代藤原親政を常胤の孫の小太郎也胤が戦い生け捕りにしている。同十七日、頼朝は、上総広常が参るのを待たず、下総国に向かい下総の国府で千葉常胤等三百騎と合流した。

 

 十九日、広常は上総の周東・周西・伊南・伊北・庁南・庁北の者を率いて軍勢二万騎(『延慶本平家物語では一万、『源平闘諍録』では千騎』)で隅田川の辺りに参上した。頼朝は遅参に立腹し許す気持ちはなかったと記載されている。上総介広常は遅延の理由として二万騎を集めるため時間がかかったと言う。しかし、広常は頼朝に大将としての力量が無ければ逆に打って出て、その首を平家に差出す二心を抱いていたと言う。頼朝が広常に遅参を咎めたことで広常は人の主となるにふさわしい様子を見て進んで従ったと言う。頼朝にとって広常は平家を倒すまでは重要な人物であった。

 富士川の戦で勝利したが頼朝は追討を指示するが、東国の支配を確実にすべきであるとの三浦義澄、千葉常胤、上総介広常の進言を受け鎌倉に戻る。千葉常胤と上総介広常の思惑があり背後に佐竹氏(新羅三郎源の義光の祖孫佐竹義政・秀義)の存在が大きく、所領問題においても頻発していた。また、佐竹氏は源氏ではあるが、平家に従い頼朝の挙兵に呼応せず金砂城に籠った。頼朝率いる軍勢は同年十一月四日、常陸国府に入り軍議が開かれた。上総広常が縁者である佐竹義政を大矢橋に誘い出し誅殺し、とても素早い処置だったため、従っていた家人のあるものは首を垂れ降伏し、あるものは早々に逃走したとされる。断崖に発つ難攻不落の金砂城に立て籠もった秀義に対し、城の造りに詳しい伯父・佐竹義季を寝返らせ金砂城を攻め落とした。

 

(写真:三浦半島 三崎)

 『吾妻鏡』養和元年六月十九日条に、頼朝が納涼の散策の為三浦義澄の一族が、かねてより準備していた頼朝の納涼の散策に出向いた時、広常が御命令により佐賀岡橋で落ち合った。広常の郎従五十人はことごとく下馬し平伏したが、広常は馬を止めて会釈するのみだった。これに対し義澄の弟・義連は、頼朝が御馬の前に控えており、下馬すべきであると言うが、広常は「公私共に三代の間、未だそのような礼を取った事は無い」と言ったと記されている。また、酒宴の席で岡崎義実が頼朝の着ている水干を所望すると、頼朝はその場で与え、御命令により、義実はその場で着用した。広常はこれをねたみ「この微服は広常のような者こそが拝領すべきである。義実のような老人を称されるというのは思いのほかのことである」と言った。義実は「広常は功があるからと思っているようだが義実の最初の忠には比ぶべくもない。自分に並ぶと思ってはならない。」と切り返し、お互いに暴言を吐き乱闘寸前になっている。頼朝は一言も言葉を出されず容易に両方を宥める事が難しかったためであろうかと記述されている。ここで、三浦義連が「頼朝様が起こしになって、義澄が準備に励んでいるこの時に、どうして好んで争うのか。それとも老狂の為か。広常の振る舞いもまた、礼儀にかなわぬものである。所存があるなら、後の機会を待つべきである。今、午前の遊宴を妨げるとはまったく理由の無い事である。」と再三制止して、二人は黙ってしまい何事もなく済んだ。頼朝が二人を咎めると、後々遺恨は残るが、義連に言わせたことで事態を収拾させた頼朝のうまい所である。この事がきっかけで頼朝は、義連を気に召されたと記されている。また、三浦義連は、源平合戦の一の谷・鵯越で義経率いる精鋭七十騎の一人で、先陣を駆け下り功を成した。

  

 寿永二年(1183)七月、倶利伽羅峠で木曽義仲が平家を打ち破り、入京した。頼朝は焦りと共に後白河の義仲討伐の院宣により討伐軍を出すに対し、広常は、以前から朝廷に対し討伐軍を上京させることに不快を示していた。そのため今後、義仲や平家と戦うにあたり東国の武士の統率が重要で、広常の発言により統率を乱す恐れも出てくる。その障害を取り払うため謀反を企てたとして梶原景時・天野遠景に命じ双六に興じて広常を誅殺させた。広常の屋敷は朝比奈切通の入り口付近にあったとされ、朝比奈切通の梶原大刀洗水は広常を誅殺した太刀を梶原景時が洗い流したとされる。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配された。その後広綱の鎧から願文が見つかり、そこに謀反を記すものではなく頼朝の武運を祈る者であった。頼朝は広常誅殺に後悔を示し千葉常胤預かりになっていた上総一族を赦免している。しかし、広常死後千葉氏が房総平氏の当主を継承した。

 『愚管抄』巻六に慈円は建久元年(1190)、頼朝が初めて上洛した際、後鳥羽院との面会で語った話で、広綱が「なぜ朝廷の事ばかり見苦しく気を使うか、我々がこうして坂東で活躍しているのを一体だれが命令できるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒するよりも関東の自立を望んでいたため誅殺したと語った事が記されている。西国の感性を持つ頼朝と、東国の坂東武士そのものの土地に執着する上総広常の違いがここに表されている。