鎌倉散策 鎌倉市川喜多映画記念館 田中絹代監督作品「乳房よ永遠なれ」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 今月、鎌倉市川喜多映画記念館に「特別展 田中絹代-女優として、監督として」を訪れた時、以前から見たかった田中絹代監督作品「乳房よ永遠なれ」を十一月二十五日に上映されることを知り観賞のため訪れた。田中絹代監督作品として六本作られており三本目の作品である『乳房よ永遠なれ』は、その前に作られた『恋文』や『月は上がりぬ』と比較して小津安二郎・成瀬己喜男等の影響はなく、田中絹代監督として独自性を表現した作品として、今再び脚光を浴びている。

 作品は昭和三十年(1955)十一月二十三日に公開され、歌人・中城ふみ子についての若月章著『乳房よ永遠なれ』、中城ふみ子歌集『乳房喪失』、『花の原型』を映画化された。内容は、三十一歳で乳癌に倒れ夭逝した薄幸の歌人・中城ふみ子の乳癌という病気を通し女性の命の悲しさと、死の現実の厳しさを「ふみ子」の故郷北海道を背景に描いている。「女性が女性を描くことにこだわった田中は脚色に田中澄江、主演に月岡夢二を得て妻や母の立場を超えてふみ子が女として自我に目覚めていく姿を表現した作品である。

 

 中城ふみ子は、大正十一年(1922)十一月に北海道河西郡帯広町で生まれる。旧姓野江富子、妹の敦子も歌人である。裕福な家であり北海道道庁帯広高等女学校に進み、成績は優秀であり、文学に熱中していった。山川八千代の『薔薇は生きている』、川端康成の『乙女の港』等を友人たちと呼んでいたとされる。そのころから短歌を詠み始め、卒業後、東京家政学院(現:東京家政学院大学)に進学し、大正デモクラシーの中、恵まれた教育環境と良き友人に恵まれ青春時代を謳歌する。学院での文学を教えていた池田亀鑑から和歌の薫陶を受け、岡本かの子に夢中になり影響を受けた。卒業後実家から即座に見合いの話が持ち上がり婚約は成立するがふみ子の意思で破棄される。

 日中戦争の戦時下、聖戦を称え、ふみ子は自分本位な生き方から従順かつ犠牲心を持った生き方に変容し、戦時下で幸福になる自信はなかったが、昭和十七年(1942)に鉄道省に勤めていた中城博と結婚したが、当初から性格の不一致で悩むことになった。戦後、博は生活が乱れ始め土建業者に工事請負の便宣を図る代わりに若い芸者を世話させたとされる業務上不正行為が発覚し、それが原因で北海道各地を転勤させられる。この頃からふみ子は、夫から禁止されていたとされる短歌の発表を始めた。北海道新聞と文芸雑誌ポプラに発表し出し、北海道新聞の公募に短歌の部で唯一掲載されている。短歌を詠むふみ子に対し、夫の博は不満を持ち夫婦の仲は次第に亀裂が深刻になっていった。そして四国香川に転勤となり、博は職に嫌気をさして昭和二十四年(1949)に国鉄を退職。再び帯広に戻りふみ子の実家の援助を受け高校の土木科の教師の職に就くが、ねずみ講を行い退職した。ふみ子と博の間には、生後三ヶ月でなくなった次男を含めると四人の子を産んでいるが、この時、子供を宿すが生活苦と博との間にこれ以上子供を持つことが出来ないとして堕胎している。

 博は愛人を作り、続いて建築会社で働き出すもここでも問題を起こし、その始末にふみ子の実家の野間家が行った。両家の話し合いで昭和二十五年(1950)五月に夫婦別居となる。帯広に戻って以降「辛夷短歌会」に参加し大森卓と出会っている。昭和二十六年(1951)十月には長男、長女をふみ子が引き取り、末子を中城が引き取ることで正式離婚となった。離婚後もふみ子は旧姓に戻ることは無く中城姓で通し、その事について「現在の幸も不幸も結婚生活から発端してゐるのであるから、中城といふ姓に愛着を捨てきれない」と語ったという。本来自由奔放なふみ子は関係があったとされる大森卓や、癌で亡くなる直前まで様々な男性と関係を有したとされる。

 

(写真:ウィキペディアより引用 『乳房よ永遠なれ』)

 中城ふみ子の乳癌にかかわる変調は離婚したころには感じ取っていた可能性が指摘されるが、診断を受け左乳房絶叙述を受けたのは昭和二十七年(1952)四月であり、その後も再発予防のため放射線療法を続けていた。ほぼ一年の放置による若年進行性乳癌の再発率の危険性を示すことになる。退院後、ふみ子は旺盛な創作意欲で短歌を詠み始めていたが昭和二十八年(1953)三月に再発が認められ右胸部の転移部分の切除が行われた。札幌医科大学附属病院に通院する列車の中から石狩湾を見て迫りくる死を前にして、残された己の人生、そして死を直視して覚悟を詠んだ。

―冬の涛よせる皺寄せゐる海よ今少し生きて己の無惨を見むか―

翌年の昭和二十九(1954)年、札幌医科大学付属病院に入院中日本短歌社が公募した五十首応募で、ふみ子の歌が特選を得て全国歌壇に登場することになり波紋を呼んだ。その特選した五十首の中に

―救い無き裸木のと雪のここにして乳房喪失の我が声とほる―

八首を取りやめて四十二首で発表することにされたのが『乳房喪失』であり、

―唇を捺されて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかになさる―男性が唇に触れた時には観応の高まりで熱くなった乳房、しかし、その乳房には己をあざ笑うかのように癌が成長していたと女性の性と癌を詠んだ歌から始まる『乳房喪失』が「短歌研究」四月号に掲載された。この頃ふみ子は、癌の苦痛(主に放射線療法の苦痛及び癌の転移による疼痛と考えるが)により自死を考えたという。死後に行われた解剖によりさ虫両杯に渡り眼が転移しており、その他胸骨柄の骨転移、皮膚、卵巣へも転移していた。

(写真:ウィキペディアより引用 札幌医科大学付属病院入院中の中城ふみ子)

その後、『乳房喪失』が昭和三十年七月一日に発売され初版八百部で最終的に八版を重ね総計一万部を増刷されている。しかし、中城ふみ子が全国花壇を舞台に活躍できたのはわずか四ヶ月足らずであり、八月二日に死去、享年三十一歳であった。最後の言葉は「死にたくない」であった説と 様態の急変にうろたえる母を制する「お母さん、騒がないで」であった説がある。

 

 映画『乳房よ永遠なれ』の作品評価は封切り週に東京都内で一位の観客動員数を記録し、この年のキネマ旬報賞の第十六位となった。また地元の北海道の札幌では通常躍一万五千人程度である観客動員数が約六万人を数えている。田中絹代が監督として独自性を表現した作品として、また日本で初めて女性監督作品(日本初の女性監督は坂根田鶴子が存在する)が現れたとする好意的評価もあったが、一方主人公のふみ子が「本能の赴くままのしたい放題」、「破壊的(否定的)な欲望のまま死に急いだ」感動の無い不潔な作品であるとの批判もあった。また、ふみ子を知る人にとって、良いも、悪いもふみ子の人物像と乖離していたとされる。これらの批判に対し脚色の田中澄江氏は「男女の情事を、それほど綺麗事でしかとらえない日本映画の古さを改めて知らされた」、「近代的な企業にの一つに数えられる映画が、実は前近代的な人間像に停止していると」切り返している。旧来の男性依存により幸不幸が左右される受け身の女性に対し、女性側からの視点で、乳癌と長い伝統を踏まえた女性歌人の女性としての生き方を描いた。現在では、日本映画史に残る田中絹代の監督としての代表作と評価されている。

(写真:鎌倉市川喜多映画記念館に「特別展 田中絹代-女優として、監督として」パンフレット)

 現在、乳癌において早期発見により乳房温存術や再建術も発展して可能である。薬物療法もホルモン療法が閉経前・閉経後乳癌により有効な薬剤が数多く適応されている。放射線療法も、より有効性を得ており、また化学療法も多くの抗がん剤が用いられ、副作用の嘔吐なども抑える薬剤が確立されている。しかし、何より早期発見が大切で、それにより再発を防ぎ、五年生存率を高める。当時の昭和三十年の乳癌治療は、拡大切除術とようやく放射線療法が開始され始めた時期で、映画にも表現されているが中城ふみ子の治療は切除術と放射線療法のみあった。また、病院の病室自体が死を待つ待合室の様相で、そこで生きるため、歌を詠むふみ子の姿に涙した。