今回は坂東八平氏を取り上げさせていただく。坂東八平家は、平将門を援助した桓武平氏の平良文を祖とする諸氏であり、その子忠頼の子が武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門である。房総平氏では千葉氏、上総氏。秩父平氏は秩父氏、豊島氏、畠山氏、葛西氏、河越氏、江戸氏を称した。また、良文流を祖とする相模国西部の平忠頼の庶流中村党(中村氏、土肥氏)。相模中部の良文流鎌倉景正を祖とする鎌倉党(大庭氏、梶原氏、長尾氏)、相模東部の良文流三浦為通を祖とする三浦等がいる。時代年代により優勢を誇る氏族が変わるために指定する事はさまざまであり、一般的に千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏が挙げられる。また、平貞盛から三代後の平直方流を祖とする北条氏、熊谷氏等が挙げられるが、その信憑性は定かではない。
(写真:ウィキペディアより引用 「前賢故実」より千葉常胤像菊池容斎筆と千葉市立郷土博物館「千葉常胤像」)
今回は、房総平氏の千葉氏を取り上げさせていただく。千葉氏は先述した通り桓武平氏良文流の坂東八平氏の一つの氏族であり、房総平氏の祖・平忠常から分かれた千葉氏流である。平忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来、広大な所領を有し、国師の命にも服さず納税の義務も果たさなかったという。長元元年(1028)六月に忠常は安房守・平惟忠を攻め焼き殺している。原因は定かではないが受領と在地領主である忠常との対立であったともされる。そして上総国の国衙まで占領してしまった。そして上総国の国人が忠綱に加担し房総の上総国、下総国、安房国の三国まで広がった。 朝廷がその知らせを聞き源頼信が常陸海に在任中忠常を臣従していたため、右大臣藤原実資源が推薦したが、後一条天皇は検非違使右兵右衛門少尉平直方と左兵右衛門少志中原頼道に宣旨を与え追討使として派遣を決めた。しかし、他の国においても争乱が頻発したため追討の準備に時間がかかり、また中原頼道の消極的だったことで長期戦となり朝廷は源頼信を召還した。房総三国は戦場と化し荒廃したため国民が飢えに会い忠常の軍勢も疲弊していた。長元四年(1031)春にて源頼信に降伏し、出家をして京に護送中病死している。房総三国の子孫は赦免された。
『左経記』長元七年十月二十四日条において房総三カ国(上総国、下総国、安房国)は大きな被害を受け上総介藤原辰重の報告によると上総国の作田は二万二千丁あったが、僅かに十八兆に減ってしまったという。その原因は追討使であった平良の直方や朝廷軍の諸国平氏による収奪だったと明言している。この乱を平定したことによりに源頼信、に坂東平氏が配下に入り、河内源氏の東国への勢力拡大させる決起となり、後に頼義、義家、義忠、為義、義朝、頼朝と続く。
(写真:ウィキペディアより引用 千葉常胤騎馬像「飛躍」)
長元の乱で赦免された忠常の子・常長は再び勢力を拡大させ、平常長の子・常兼は、上総国山辺郡大椎(現千葉市緑区大椎町)に館を築き本拠とした。常長の長子・常兼は、千葉氏初代家祖とされ、上総権介か下総介もしくはその両方に任じられ大椎権介と呼ばれ、後には千葉大夫と称されている。常兼の代に入り下総国への進出が始まったとされる。常兼の子・常重は長子でありながら惣領ではなく、ここで房総平氏は千葉氏と上総氏の二流に分かれた。そして常重は、下総国千葉郡千葉郷(現:千葉市中央区亥花付近)を拠点に下総権介となり千葉介を名乗った。それ以降千葉市の惣領は千葉介を名乗ることとなる。房総平氏は千葉氏と上総氏の二流に分かれた理由として、千葉氏と上総氏の間に所領争いがあったとされる。源義家の後三年の役には父常長と供に従軍し功を立てている。常兼の三男・常重が千葉姓を継承し、常兼の弟・上総介常晴の養子となり房総平氏惣領の座も得る。理由は定かではないが、常晴には実子がいたのも拘わらず養子を取り、これが一族の抗争の原因となった。
(写真:鎌倉 二階堂 紅葉ヶ谷)
千葉氏は常重の子常胤の時代に入り、源義朝との主従関係を持つようになる。司馬遼太郎の「街道を行く 三浦半島記」で「義朝は、政治力は無かったが篤実であった」と記しており、東国武士団にそれを物語っている。また、数度の紛争にも介入した。千葉常重は、開発所領を鳥羽天皇に寄進を行い、下総権介を拝していた。また相馬郡布施郷を伊勢神宮内宮に寄進し相馬御厨を成立させ、自身が御厨下司ととなり地主として加地子・加司職を取る権利を承認させていた。保元元年(1135)、千葉常胤十六歳の時に父常重から相馬御厨下司職を譲られる。しかし翌年、下総守・藤原親通は常重を相馬郡の公田官物未納の冤罪を作り逮捕監禁されて相馬郷・立花郷を官物の代わりに親通に進呈するとの内容の証文を責め取られ横領した。これに対し義朝は千葉氏の同族の上総介平澄と介入し康治二年(1143)、常重から相馬郡の御厨の利権書類を責めとった。義朝は天養二年(1145)三月、伊勢神宮に寄進する避文(自己の権利もしくは主張を放棄する文)を提出するが圧状(強制的に作成された文書)とみなされ拒否される。常胤は再度「親父常重契状」の通り伊勢神宮に供祭料を納め、相馬御厨の加地子・下司職を常胤の子孫に相伝される事の新券を伊勢神宮に奉じ承認させた。荒っぽい手段であるが義朝は常重、常胤親子と伊勢神宮との調停役を買って出たものと考える。
主従関係を結ぶことにより相馬群司を与え、保元の乱では常胤は義朝の郎党とし参加している。しかし平治の乱で義朝が敗れると、下総守・藤原親通から御厨の権利を継承したとする常陸国佐竹義宗により相馬御厨の支配権を失ってしまう。その後、千葉氏と佐竹氏の抗争が続く事になった。
(写真:鎌倉源氏山 源頼朝像)
平治の乱で敗れた源義朝は尾張野間で長田忠致親子に裏切られ殺害され、義朝の子・頼朝が伊豆に配流された。治承四年八月に頼朝が挙兵、石橋山の戦いで敗れ頼朝軍は四散し土肥次郎実平が準備した小舟に頼朝と実平が乗り真鶴岬から安房へ脱失し、安房国平北郡の猟島にたどり着く。頼朝は父の実朝が上総介で育ち上総の御曹司と呼ばれ、保元・平治の乱において義朝に味方したため、上総介広綱のもとに行こうとしたが、安房の住人で頼朝の幼少期に仕えていた安西三郎景益は治安が悪く、こちらに参上するように御書を送ることを進めた。後の幕府重臣になる安達盛長に千葉之介常胤に御書を持たせた。『吾妻鏡』によれば常胤は子息胤正・胤頼等で丁重に迎い入れ、盛長の伝言を聞き何の反応も示さなかった。胤正・胤頼が送球の返事を薦めたところ「自分の心中はもちろんそのつもりだ。ただ、頼朝殿が源氏中絶の後を起こされたことを考えると、感涙が目を遮り、言葉も出ないのだ」と記述されている。また盛長に相模国鎌倉を根拠とする事を薦めたとされる。千葉介常胤は早々に三百騎を引き連れ参上し、下総国の国府に向かう。
(写真:鎌倉 鶴岡八幡宮 ぼんぼり祭り)
千葉常胤は、平治の乱で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後五十日の子が配流され、源氏の旧恩からその子・源頼隆を源氏の貴種として大切に育てた。千葉常胤の館に頼朝が入ると常胤は頼隆を伴い頼朝の前に伺候し、頼隆を用いるよう申し入れる。頼朝は頼隆が源氏の孤児であることに温情を示し常胤よりも上座に据えるなど厚遇を施したとされ、その後も源氏一門として遇された。文治元年(1185)九月三日の頼朝が父義朝の遺骨を勝長寿院に埋葬した際、遺骨を運ぶ輿を頼隆と平賀義信が運び入れ頼隆・義信・惟義(平賀義信の長子)のみを御堂の中に参列させた。また、頼朝の上洛や東大寺落慶供養にも随行しており、頼朝と主従関係にあったため父義孝が相模国毛利荘を領していたことから毛利頼隆と呼ばれている。頼朝は千葉館の宴席の際、常胤を座右に座らせ「これからは常胤を父の様に遇したい」と語った。頼朝にとって大きな後援者が出来たが、北条時政とは違う精神的な面でも支える後援者であったと考える。
(写真:鎌倉 勝長寿院跡)
源頼朝は坂東の武士を引き連れ、甲斐源氏武田信義と共に治承四年(1180)十月二十日に富士川の戦で勝利する。頼朝は即時平家追討を指示するが、東国の支配を確実にすべきであるとの三浦義澄、千葉常胤、上総介広常の進言を受け鎌倉に戻る。その本質は、上総介広常の貢で述べさせてもらう。その後、東国における目代を攻めて平家とのつながりを断たせ、挙兵に参加する武士の所領を保証し、敵方の没収地を新たに恩賞とする事の政策が採られた。貴族や平氏に不安と不満をいだく東国武士にとって頼朝に従う事で変革をもたらされることを願い、多くの武士が集まった。富士川の戦いにおいて、いかに正確な情報と迅速な対応が必要なのかは鎌倉幕府に受け継がれている。千葉氏は鎌倉期、室町期、戦国期、江戸期を衰退しながらでも生き残り、現在まで投手を残している。 ―