古代日本において畿内周辺の三関である不破関(美濃国:岐阜県)、鈴鹿関(伊勢国:三重県、)愛発関(越前敦賀:福井県)の以東を東国(あずまのくに)と称されていた。「あずま」は、飛鳥時代から奈良時代に発展した上代日本語の上古から用いられた大和言葉(和語)と考えられる。「吾嬬」「吾妻」「我姫」「阿豆麻」などの用字が充てられ、その後も定義が曖昧な語として推移していった。
「吾嬬」「吾妻」「我姫」という言葉は、日本武尊が東国遠征軒と亡くなった妻の弟橘媛の事を思い出し、東の方角を見て嘆き悲しみ碓日坂において東側の地を「吾嬬」と呼んだとされ、『古事記』には足柄坂(足柄峠)、『日本書紀』には碓氷(うすい)山(碓氷峠)と示されている。鎌倉時代の史書として編纂された『吾妻鏡』が吾妻の歴史物語、説明、解説とその名を用いた。九世紀初頭に愛発関から逢坂関(近江国:滋賀県)に代わり、律令国家としての三関がある三関国と呼ばれるようにもなる。また、畿内を中心に西国と示し、三関以東を東国とする対比後としても用いられた。
(写真:奈良 興福寺)
奈良時代以前には関東八ヶ国の他に陸奥国をも含めた九ヶ国を意味する場合もあり、確かな定義は定められず、後の白川・菊田(勿来)関以南の八ヶ国を指すことが定着した。奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は当時の「東国(あずまのくに)」に帰するものである。
奈良時代の天武天皇の頃、奈良時代の律令国家の下で足柄峠以東の東海道諸国の「坂東」と呼ばれだして東山道の碓氷峠以東(身平定地の陸奥:福島県・出羽:山形県以北を除く)を「山東」と呼ばれだした。後に蝦夷遠征のための勅許、綸旨、宣旨などにおいて命令文書の増加に伴い両者を坂東と呼ばれ、その最古として見られるのが『続日本記』神亀元年(724)であり、奈良時代初頭には定着した。
(写真:青森県むつ市 奥薬研大畑林道)
平安時代に入ると延暦十六年(797)、桓武天皇より坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ延暦二十年(801)節刀を賜った桓武朝第三次蝦夷征討が行われた。この頃の前後から藤原氏や桓武天皇の孫三代が臣籍降下して、「平」姓を賜り、坂東に下り、開拓自業に着手したと考えられる。平将門が承平五年(935)二月、平真樹(平将門の強力な同盟者)と源護(みなもとのまもる:嵯峨源氏の地方豪族)との領地争い及び、所領を横領されたとする叔父常陸大掾・国香を国香の弟の平良文が援助し殺害したとされる。天慶二年十一月将門は常陸国府を占領し、十二月には将門が坂東諸国を制圧して新皇を自称する「平将門の乱」が起こったが、翌天慶三年二月に藤原秀郷、平貞盛(国香の子)の軍に将門が流矢にあたり討ち死にし乱は平定された。
藤原秀郷はその功績により三月に従四位下に叙され、十一月には下野国(栃木県)の国司である下野守に任じられた。さらに武蔵国(東京都・埼玉県)の国司である武蔵守及び鎮守府将軍も兼務している。秀郷は教に進出しなかったため坂東中部を支配する武家の諸士の祖となった。鎌倉期において有力であった武家では下野国に小山氏、下河辺氏、藤姓足利氏等。武蔵国では比企氏等、常陸国では江戸氏等、下総国では結城氏と伊藤氏(工藤氏、伊東氏の本流)、上野国では山上氏、大胡氏、相模では波多野氏(秦野氏)が著名である。平貞盛は従五位以上もしくは正五位以上と叙せられ、後鎮守府将軍、丹波守、陸奥守を歴任している。後に京都に進出したため、次男維将が嫡子とされ、その孫は相模介平直方で「京武者」と称される軍事貴族であった。後に娘婿の源頼義に所領を譲り与えた。四男維衡は伊勢平氏の祖であり、平清盛に続いている。
坂東八平家は、平将門を援助した桓武平氏の平良文を祖とする諸氏であり、その子忠頼の子が武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門である。房総平氏では千葉氏、上総氏。秩父平氏は秩父氏、豊島氏、畠山氏、葛西氏、河越氏、江戸氏を称した。また、良文流を祖とする相模国西部の平忠頼の庶流中村党(中村氏、土肥氏)。相模中部の良文流鎌倉景正を祖とする鎌倉党(大庭氏、梶原氏、長尾氏)、相模東部の良文流三浦為通を祖とする三浦等がる。時代年代により優勢を誇る氏族が変わるために指定する事はさまざまであり、一般的に千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏が挙げられる。また、平貞盛から三代後の平直方流を祖とする北条氏、熊谷氏等が挙げられるが、その信憑性は定かではない。
清和天皇の皇子のうち四人と孫の王のうち十二人が臣籍降下し、摂津源氏、大和源氏、河内源氏をおおむね分かれるが、摂津源氏(多田源氏)の源満仲は、中級貴族として藤原北家の摂関政治に協力し中央の武門の地位を構築し、摂津国川辺郡多田に武士団を形成する。その後も藤原摂関家に仕えた繁栄した。大和源氏は、中流貴族及び地方豪族的な要素を持ち、保元の乱で源野親治は崇徳天皇側に付くが後白河法皇により赦免され、後の治承四年(1180)に源頼政が以仁王とともに挙兵するが、治承・寿永の乱で主だった功績は無く衰退していく。
軍事貴族として源頼信流の河内源氏は、長元元年(1036)に相模守に任官。平貞盛流嫡流の平直方が弓の名手の頼義の武勇に感じ入り娘の婿に頼義に選んだ。直方の鎌倉の大倉にあった邸宅や所領、桓武平氏の郎党も頼義に譲り与えており、そして長暦三年(1039)に嫡子八幡太郎義家が生まれている。
(写真:京都御所)
永承六年(1051)に陸奥国の豪族安部氏の叛乱前九年の役で源頼義が陸奥守に赴任、東国武士団を配下に置き安部氏の討伐を行う。康平六年(1063)二月十六日、前九年の役を十二年かけ平定した頼義は教に凱旋して朝廷からの恩賞は正四位以下の伊予守を、嫡子義家は従五位以下を賜った。しかし、未だ恩賞を手にしていない将兵の為、都に留まり恩賞獲得に奔走している。この時に河内源氏と坂東武者が主従関係を構築したと考えられる。その後、源義家は永保三年(1083)に陸奥守に叙任され、清原氏の内紛に介入し後三年の役が始まった。寛治元年(1089)十一月に平定した義家は、後三年の役を報告する「国解」で追討官符を要請するが朝廷は「私戦」として下さず、恩賞も得られなかった。そして、翌寛治二年(1088)正月に陸奥守を罷免されている。役の間に定められた黄金や貢納を行わず戦費に回していた事や官物から兵糧を支給したことから朝廷に咎められ、義家の受領功過定を通過できず新たな官職にも就くことはできなかった。主に坂東から出征した将士に私財から恩賞を出し、その結果、義家の名声は高くなり、主従関係をより強固なものとした。その結果、源頼朝が武士の棟梁として鎌倉幕府を開き武家政権を確立できた要因である。
関東を現在の関東地方を指すようになったのは鎌倉時代以降である。幕府設立後、幕府から各地域の御家人に対し命令通達する文書が「関東御教書」であり、そこから東国、吾妻、坂東、関東と推移していった。 ―続く
(写真鎌倉 由比若宮・元八幡 源頼義が前九年の役を鎮定し、石清水八幡宮から勧請した)