曽我兄弟の仇討については、多くの説が挙げられている。主なものを挙げてみる。
一、『保暦間記』にのみ記載が残る。この事件後、鎌倉に頼朝が討たれたとの御報が伝わり、嘆く政子に弟範頼が「後にはそれがしが示換えております」と述べ、その発言により頼朝に謀叛の疑いをかけられ『吾妻鏡』建久四年八月二日条起請文を提出、その状中で「源範頼」と源姓を名乗ったため頼朝は過分として責めを許さなかった。これを聞いた範頼は狼狽し、同十日、夜に家人の当麻太郎が頼朝の寝所の下に潜んだ。その気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ詰問すると「範頼が起請文を提出した後、全く重ねての仰せが無く、どうなっているか困惑居ております。(頼朝の)内々のお考えを知って安否を思い定めたいと(範頼は)たいそう悲観に暮れておられるので、もしや何かのついでにこの事を仰せ出されるのかどうか、状況を窺うために参りました。全く陰謀の企ては有りません」と申した。範頼にも訪ねたが「存じません」と申したと記されている。当麻は弓や剣の武芸の優れた勇士であり、範頼が特に頼りにしていた家人であった。
十七日に範頼は伊豆国修善寺に流され、『吾妻鏡』には、その後の記載はない。範頼を伊豆で預かったのは狩野介宗茂と宇佐美祐茂であり、宗茂は曽我兄弟の母・萬江御前の同族で、祐茂は仇討された工藤祐経の弟であった。その後『保暦間記』、『北条九代記』等に誅殺されたことが記述されている。そして『吾妻鏡』同月二十日条で、「故曽我十郎祐成の同腹の兄弟である原小次郎が処刑された。三州(範頼)の縁坐という」。同月二十四日条にて「大庭平太景義・岡崎四郎義実が出家した。とりたて思うところがあったわけではないが、それぞれ年老いたのでお許しを受けて出家を果たした」と記述あるが、二年後、建久六年(1195)二月に大庭景義から、さるお疑いで鎌倉を追放され赦免を求める申し分が記されている。岡崎義実は頼朝の死去一年後の正治元年に貧しさのあまり政子に訴えている。この二人が頼朝の勘気を受けたようで、そこに範頼指示に回っていたのではないかという説であるが、治承・寿永の乱、義経追討などを知る範頼に謀反を計る能力と知性は見当たらない。頼朝が嫡子・頼家による将軍の体制を構築するための粛正であったと考える。
二、北条時政の関与説がある。時政は曽我時致の烏帽子親になっており、曽我兄弟の仇討以前に、『吾妻鏡』元久元年九月七日条に「激しく雨が降った。夜になり故(伊東)祐親法師の孫の祐成(曽我十郎)が弟の童(筥王)を伴って北条殿(時政)へ参った。(筥王は)時政の前で元服して曽我五郎時致(時宗)と称し、鹿毛の馬一頭を賜った。これは祖父の祐親法師が二品(頼朝)を射たとはいっても、その子孫のことは今となっては問題とするに及ばず、祐成継父(曽我)祐信に従い曽我庄にいる。不肖のためいまだ頼朝に仕えてはいないが、常に北条殿のもとへ参っていた。そこで今夜のことを(頼朝は)強いて気にはされなかったと言う。」と記述され、「頼朝は今夜のことについて特に話されなかったと言う」と、建久四年(1193)五月二十八日の仇討の二人のことが、この年に記述されているのは、いかにも不可解で、時政の弁明のように思われる。そして、この仇討が三原野や那須野での巻狩りに行われず、富士野で起こった事である。富士野は、北条時政が守護を勤める駿河国の地で、藍沢・富士野での巻狩りに先立ち頼朝の御宿館を手配したのが時政と狩野宗茂であり、警備の責任者も兼ねていた。
また、時政は、頼朝の舅としては、頼朝在世中不遇であったとされ、幕府の中央の役職には他の有力御家人が任じられ、文治元年に朝廷に追補として守護地頭の設置を認めさせる成功させたにもかかわらず、朝廷の官職の推挙も受けていない。しかし、頼朝死後からは、あらゆる手段と謀略を廻らし、北条氏の執権政治の基礎を築いていた。『吾妻鏡』より編纂が早かったとする真名本『曽我物』では五郎の祖父祐親が頼朝により謀殺れたと記述されており、『吾妻鏡』との伊東祐親の記述とは異なる。時政は、まだ若い曽我兄弟に工藤祐経に対し憎悪を煽り、祐経を重用する頼朝に兄弟の心情を転化させ、頼朝までも討たせようとしたという説である。
時政が時致の烏帽子親になったことは、鎌倉・曽我・北条・伊藤と狭い地域の近隣であるため、だれもが周知の事実として知っていただろ。この時期に頼朝の暗殺計画を遂行するには、かなりの危険な計画であったと考える。そして、建久四年当時の北条時政は、小豪族から伊豆・駿河の守護を勤めるほどになり、頼朝の存命によりその地位と名誉が保証されていた。頼朝を暗殺しても北条が政権を担う組織力や軍勢を伴う力は未熟であっただろう。また、曽我兄弟の兄・祐成が北条時政の祐成は新田四郎忠常(仁田四郎忠常:にったた)に討ち取られた、忠常がなぜそこにいたのかが不可解である。忠常は頼朝挙兵時から加わった伊豆国の住人で時政に近い武士であり、後に時政の命で比企能員を北条名越邸で切った男である。小説家の永井路子氏は、反北条を討つ政変に曽我兄弟が使われたのではないかと推論され、その首謀者は、『吾妻鏡』建久四年八月二十四日条にて記載がある出家した大庭平太景義・岡崎四郎義実であると考えられている。
三、曽我兄弟の仇討が工藤祐経と頼朝だったとする説が挙げられる。それは、源頼朝は初子・千鶴丸を伊藤祐親により殺害され祐親を恨み、工藤祐経と共謀して祐親と嫡子・河津三郎祐奉を討つ企てをしたという説からきている。保立道久氏は真名本『曽我物語』参観の冒頭の解釈に 誤りがあるとした。
従来、源頼朝が北条政子との関係を持ち始めた時期と解釈されて来た。同書記載の安元二年(1176)三月という年次は頼朝と政子が関係を持ち大姫が誕生した時期であると指摘している。そのため頼朝と政子の関係は安元元年(1175)の初夏には関係を持ち始めていたことになり、伊藤祐親が京から戻る直前としている。保立氏は、安元元年九月の頃、伊藤祐親が千鶴丸を殺害し頼朝尾も殺害しようとした事は、平家との関係を憚ったのではなく、源家の地を継ぐ頼朝を庇護し、娘との関係も認めており、その厚遇に反し、北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨し、一種の「後妻打ち:うわなりうち」であったと事で殺害をしたと提唱した。そして、私自身が思うのは、先述した頼朝関与説で、伊東祐親が頼朝の初子を殺害してから河津祐泰の殺害まで、ほぼ一ヶ月で、私自身、この保立氏の説により伊東祐親と伊東祐清の不可解な点を解消できる要素を持ったものであると考える。挙兵後、伊豆国において伊東祐親のみが相模国の大庭景近と平家方に与し、執拗以上に頼朝を追っておいる事の理由としてみた。
『吾妻鏡』において伊東祐親が即刻梟首されず、罪名が決まるまでの預かり期間の長さは、頼朝は祐親に対し引け目を持っていたのではないだろうか。そして、政子の懐妊により恩赦が与えられることで、「禅門(伊東祐親)は今(頼朝の」恩言を聞き、改めて以前の行いを恥じると言い、すぐに自害を企てました。」と記されているが、それは頼朝に対し「以前の行いを恥じろ」と言い残したのではないか。そして、自害は祐親の最後の頼朝への抵抗であったように考えられる。そして、すべてを知る伊東祐清は、再度の頼朝からの恩賞を断り、平家の恩があったわけでもなく、かたくなに平氏側に与することを願った。当時は親兄弟でありながら、源氏。平氏に分かれて与することは当たり前で大庭景親の兄の大庭景義は頼朝に与している。しかし、祐清にとって、これも頼朝に対しての意地と抵抗であったように思われる。そして全てを知る祐清は、寿永の乱の北陸道の戦いで討たれ、真実は闇の中に葬られた。
曽我兄弟を『頼朝を狙った暗殺者』に記述させてもらったのは、こういった推測からであり、真実が何処にあるのか推論する面白さが、隠された歴史の学びにあると思う。 ―完