伊藤祐親は、伊豆国田方郡伊東荘(現・静岡県伊東市)を本領とし平安時代末期から藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一族で通字は「祐」である。保元の乱後、源頼朝が伊豆に配流され、その監視人の一人とされている。定説では、祐親が京に大判役・謹仕に赴いている際、三女の八重娘が頼朝の子・千鶴丸を産んだ。京から戻った祐親は激怒して、平家の咎を受ける前に三歳になった千鶴丸を松川の轟ヶ淵に沈め殺害し、頼朝自身の殺害も企てた。『曽我物語』では、祐親の次男祐清は頼朝の乳母であり配流中の生活の糧を与えていた比企尼の三女を妻としていたため祐清は、この事を聞き、頼朝の危険を知らせるために密かに告げてきたので頼朝は北条館へ逃げた。『吾妻鏡』では、走湯山へ逃げたと記され、「安元元年(1175)九月の頃その功を忘れずにおられたが(祐清は孝行の志が厚く)こうしたことになったという」。八重姫のその後については入水自殺したとも、江間小四郎(北条義時とは別人)もしくは、千葉氏と縁を結んだとされ、定かではないが、この間に祐親は出家したと言われている(『吾妻鏡』では祐親法師と記されもする)。
安元二年(1176)十月、所領を乗っ取られ、妻まで返された工藤祐経は、伊東祐親に恨みを持ち郎党の大見小藤太と八幡三郎に借りに出た祐親を待ち伏せ、小藤太と三郎が刺客として矢を放った。その矢は祐親と一緒にいた嫡男・河津祐泰(助通)に当たり祐泰は三十一歳で落命する。小藤太と三郎は、すぐに伊藤祐親の追討によって殺害された。 『曽我物語』で伊藤祐親の嫡子・河津三郎助通(祐泰)が、わずか亡くなった五日目に妻・萬江御前がもう一人の男の子を生むが、生きる気力をなくした者に育てることができず河津の弟・伊藤九朗祐長(祐清)のもとへ養子に出したことが記されている。そして萬江御前は、九歳の一万と七歳になる筥王と共に相模の住人で伊東祐親の妹の子、甥にあたるとされる曽我太郎祐信と再婚した。
(写真:静岡県伊東市大原物見塚公園の伊東祐親像と伝・伊東祐親の墓(静岡県伊東市大原町)ウィキペディアより引用)
治承四年(1180)八月に源頼朝が挙兵すると伊東祐親は、平家方として大庭影親と共に頼朝を石橋山の合戦で追い込んだが、土井実平の計らいで頼朝は安房国に逃れた。頼朝は安房から勢力を整え坂東を制し、富士川の戦いで勝利する。その後、平家軍は分断され、伊藤祐親は平維盛の味方に付くために、伊豆国鯉名泊(こいなとまり)に船を浮かべ海上に出たところ天野藤内遠影がこれを見つけて祐親を生け捕りにした。娘婿の三浦義澄は頼朝の御前に参上し祐親の身柄を預けてほしいと申し上げ、罪名が決まるまで義澄に預けられる。『吾妻鏡』寿永元年(1183)二月十四日条で、伊藤次郎祐親法師は去々年の治承四年以降、召して三浦介義澄に預け入れられていた。ところが御台所(政子)が、ご懐妊(後、頼家を産む)という噂があったので、義澄は機会を得て、何度もご機嫌をうかがったところ、頼朝が御前に召して直接に恩赦すると仰った。義澄はこのことを伊藤祐親に伝え、祐親は参上するとのことを申したので、義澄が御所で待っていたところ、老中が走ってきて。「禅門(伊藤祐親)は今(頼朝の」恩言を聞き、改めて以前の行いを恥じると言い、すぐに自害を企てました。ただいま、僅か一瞬の間のことでした。)といった。義澄は走って行ったが死体はすでに片付けられていたという。同十五日条にて、父・祐親が自害後、頼朝は九朗(祐清)に話、九朗(祐清)は「父はすでに亡く、後の栄誉は無意味に等しきものです。早くお暇をいただきたい。」と申した。そこで頼朝は必ずも誅殺された(父の自害を聞き頼朝に誅殺されることを願ったと考えられるが不明点が多く、不可解である )。世間ではこれを美談としない人はいなかった。
『曽我物語』では伊東九朗祐長、上洛して平家に奉公をし、北陸道篠原の合戦で討ち死にと記され、『吾妻鏡』治承四年(1180)十月十九日条では祐親の次男九朗祐泰として平家に加わがらんため上洛する。『吾妻鏡』建久四年(1193)六月一日条には、伊藤九朗祐清、平家に加わり北陸道の合戦の時、討ち取らると記され、両書の祐清の名前に対し不明瞭さが残り、当時改名する事も在りうるが、理由も記載されず、何故このように記載されたかは定かではない。これまでが曽我兄弟の仇討に対する根源である。
『吾妻鏡』では建久四年(1193)五月二十八日の仇討の当日「子の刻に伊藤次郎祐親法師の孫曽我十郎祐成・同五郎時致が富士野の神野の御旅館におしかけ。工藤左衛門慰祐経を殺害した。」から始まり、事件の内容、事件の動機、捕らえられた弟時致の審議と処罰、関係各者の取り調べ等を簡潔明瞭に記載されている。そして、工藤祐経の子息、犬房丸の要望により郎従の手によって五郎時致は斬首された。しかし、曽我兄弟の生い立ちや、境遇について、また仇討後の関係者のその後は語られていない。特に伊藤祐親(『曽我物語』では伊東ではなく伊藤が記されている)の次男祐清は、この物語の大きなカギを担っていると考える。その後、祐清の妻は武蔵守(平賀)義信に嫁いだ。かの僧も(養子に迎えた河津祐泰の三男)同じく(祐清の妻に)従って行き武蔵国府にいる。本来なら祐清の妻は身分的にも年齢的にも源家一族である武蔵守(平賀)義信に嫁ぐことはあり得ないが、比企尼の三女ということで、頼朝の計らいがあったかもしれない。
(写真:横須賀市薬王寺蹟、三浦義澄の墓、近殿神社)
この『曽我物語』『吾妻鏡』で祐清の動きが気になり、両書において寿永元年(1183)二月十五日条にて、父・祐親が自害後、頼朝は九朗(祐清)に話、九朗(祐清)は「父はすでに亡く、後の栄誉は無意味に等しきものです。早くお暇をいただきたい。」と申した。そこで頼朝は必ずも誅殺された。との記載に疑問を持つ。両書において、現在では伊東九朗祐清、父祐親の自害後に上洛して平家に奉公をし、北陸道笹原の合戦で討ち死にしたことが定説である。『曽我物語』では、伊東祐親が悪人として用いられている傾向がある。祐親の自害に対しての補足説明がなく、頼朝の初子を殺害し、頼朝を殺す企ても図り、頼朝挙兵後は平家方の大庭氏と共に敵対して石橋山の合戦で追い詰めた。しかし富士川の合戦で敗れその後捕らわれの身になる。本来、審議の後、罪名がつけられ即刻斬首されてもおかしくない。『吾妻鏡』では、共に石橋山で頼朝を追い詰めた大庭景親は投降後三日で梟首され、伊東祐親は、治承四年(1180)八月から寿永元年(1183)二月十四日の二年半までの間、娘婿の三浦義澄の預かりになりになっている。頼朝が赦免を出し、三浦義澄の使者が伊東祐親伝えた直後に自害し、義澄が走って行ったが死体はすでに片付けられていたという事にも不自然さを感じざるを得ない。
伊東氏は没落したが、伊東姓は工藤祐経の子息、犬房丸が伊東姓を継ぎ、後の伊藤祐時となる。父親を討った同族の姓を継ぐのである。
―続く
(写真:横須賀市薬王寺蹟)