鎌倉散策 頼朝を狙った暗殺者四、曽我兄弟 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 その後、謀反の嫌疑がかかり誅殺された者はいるが、頼朝の命を狙った者は現れなかった。曽我物語には、兄曽我十郎祐成と弟五郎時致の父の仇討の話である。しかし私見であるが、曽我物語には、頼朝暗殺の動きを感じさせるのだ。

 

 時の経過を見れば、建久三年(1192)三月に後白河院は崩御し、頼朝は五月まで服喪を続けていた。後白河法皇は頼朝に征夷大将軍の叙任を嫌っていたが。朝廷は法皇死後の同年六月に頼朝に征夷大将軍を任じた。そして頼朝は、将軍家政所を開設し下文を大量に発給し始める。いわゆる鎌倉幕府の創設である。後白河院の一周忌が明けるまで諸国での狩猟が禁止されていた。ここで頼朝は、各地の御家人に対し権威を高めるため巻狩を行う。信濃の三原野、下野の那須野の巻狩りでは武蔵・上野・信濃・下野・常陸の御家人を動員した。その中から弓馬に卓越した頼朝に忠誠心の抜きんでた二十二人の武士を選び弓箭(きゅうせん)を帯びて武装することを許した事が特色とされる。他の大多数の御家人は、非武装で頼朝に選ばれた武士達の狩猟の実演を見せつけられる。そこには、頼朝への忠誠心をあおったとされ、坂東八か国とそれ以外の地域とをつなぐ要衝である事から、頼朝がその支配領域を誇示した政治的示威であったと言われる。

(写真:流鏑馬 ウィキペディアより引用)

 建久四年(1193)五月十六日に富士の巻狩が行われ、伊豆・駿河及び東海道の御家人が参加している。そして、同二十八日、富士野神野(静岡県富士宮市『曽我物語』においては富士野の伊出・井出と明記)にて曽我兄弟の仇討が行われ、『吾妻鏡』五月二十八日条に「小雨が降り、日中以後、晴れた。子の刻に故伊藤次郎祐親法師の孫の曽我十郎祐成・同五郎時致が、富士野の神野の御旅館におしかけ、工藤左衛門慰祐経を殺害した。・・・祐経・王藤内(備前国吉備津宮住人)らの相手をしていた遊女の手越の少将と黄瀬川の亀鶴らが悲鳴を上げ、その上に祐成兄弟が父の敵を打ったと大声で呼ばわった。このため人々は大騒動に陥った。詳しい事情は分からないままに、宿侍の者たちがみな走り出して来た。雷雨が鼓を撃つかのようであり、闇夜に明かりを失って、ほとんど東西さえわからないほどだったので、祐成らによって多くのも者が疵をこうむった」。疵を被った者、平子野平右允・愛甲三郎(季隆)・吉香小次郎(友兼)・加藤太(光員)・海野小太郎(幸氏)岡部弥三郎・原三郎(清益)/堀藤太・臼杵八郎。殺害されたのは宇田五郎はじめとする者である。祐成は新田四郎忠常(仁田四郎忠常:にったた)に討ち取られた。時政は頼朝の宿所をめがけて走り参った。源頼朝は御剣を取り立ち向かおうとしたが、左近将監(大友)能直が押しとどめた。この間に小舎人童(こどねりわらわ)五郎丸が時致を搦め捕った。そこで大見小平次に(その身柄を)預けられ、和田義盛・梶原景時が頼朝の仰せを受け祐経の死骸を検視したという。

 

 『吾妻鏡』二十九日条、――曽我吾郎時致が頼朝の前に召し出され狩野介宗茂、新開荒次郎実重を通じて夜討ちの宿意を尋問したところ、時致が怒って申した。「祖父伊東祐親法師が殺害された後、子孫が零落したので、側近くに侍ることは許されないとはいえ、最後の所存を申すについては、決して汝らを通じて伝えるものではない。確かに直接に言上した。早く退け」。頼朝は思うところがあり直接聞いた。時致は「工藤祐経を討つことは、父の死骸の恥を雪(すす)ぐためであり、ついに私の鬱憤の志を披露できました。兄祐成は九歳から、時致は七歳の年から以降、常に復讐の思いを抱き、片時も忘れたことはありません。そしてついに仇討を果たしました。次に御前に参りましたことについては、祐経がただ御寵愛を受けていたものというだけではなく、祖父祐親が御前の御勘気を受けておりました。あれこれと恨みがありましたので、拝謁を遂げたうえで自殺するためでした」。聞いたものはみな舌を鳴らし、感嘆を現した。…頼朝は時致が、とりわけ勇者であるので許すべきかと、内々にためらわれた。しかし、工藤祐親の子息・吠丸が泣いて売って申したので時任の身柄を犬房丸に預けた。時致の年は二十歳であった。犬房丸は鎮西忠太と号する男にそのまま梟首させたという。同七日、頼朝は駿河国から鎌倉に戻る途中曽我太郎祐信(曽我兄弟の義父)がお供に祇候していたところ、道の途中でお暇を給わった上に、曽我庄の年貢も免除され、曾我祐成兄弟の菩提を弔うよう命じられた――。

 

(写真:曾我兄弟ウィキペディアより引用)

 曽我兄弟が工藤祐経を討ち取り、五郎時致が源頼朝の宿舎に向かった理由は『吾妻鏡』で記述された内容で済まされるのか。『吾妻鏡』が北条氏により編纂されたことは言うまでもない。そこに言う事の出来ない何かが隠されているのではないかと思う。この曽我兄弟の仇討は『曽我物語』として隠された史実を物語として広めている。作者は物語にも登場する曽我十郎祐成の虎御前こと虎女だという説もあり、物語は彼女から口承に口承を重ねて徐々に広まりったとされ南北朝時から室町・戦国期を通じて語り継がれた。曽我兄弟や虎女に関する史跡や伝承は、北は福島から南は鹿児島まで広い範囲に広がるがそこからはこの物語が語り継ぎて広まっていった様子を検証する事が出来る。口承は、主に巫女や瞽女(ごぜ:日本の女性盲人芸能者を意味する歴史的名称)などの女語りで行われたという。この事件の原点を真名本『曽我物語』から振り返って見る。

 

 伊藤祐親(兄十郎祐成と弟五郎時致の祖父)と工藤祐経両者は同族であり、異腹の叔父で元義父の伊藤祐親に祐経は恨みを抱いていた。その先代当主、工藤祐隆は、嫡男が早世したため、継娘の子を伊藤祐継と名乗らせた。早世した嫡子の嫡系にあたる子が祐親で河津を譲り、名を河津祐親としたが、所領分割の措置に不満を抱いた。工藤祐隆も亡くなり、伊東姓を継いだ祐継も早世したために河津祐親が伊東祐継の子・金石(祐経)七歳の後見人となり、元服させ娘を嫁がせて工藤姓を名乗らせている。そして祐親が伊東姓を名乗った。祐経は祐親に所領を奪われた事に気づき訴訟を起こすが、取り上げられることは無く、その上、祐経に嫁いだ祐親の娘・万却御前(後、土井実平の嫡男遠平と再婚させている)とも離縁をさせている。その仕打ちに恨みを持った祐経は、安元二年(1176)十月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に借りに出た祐親を待ち伏せ、小藤太と三郎が刺客として矢を放った。その矢は祐親と一緒にいた嫡男・河津祐泰(助通)に当たり祐泰は落命する。小藤太と三郎は、すぐに伊藤祐親の追討によって殺害された。

 

 河津祐泰の妻萬江御前(『吾妻鏡』『曽我物語』において名は明記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(後の兄十郎祐成と弟五郎時致)は残され、四十九日の法要も過ぎたころ、萬江御前は一人の男子を産む。後に「御房殿」とよばれ、萬江御前には育てることができないため河津の弟の伊藤九朗祐長夫婦が養子として引き取られた。伊藤祐親は娘萬江御前を祐親の姉の子である甥の曽我祐信と再婚させる。曽我祐信は曽我荘の領主であるが非常に貧しく、一萬丸と箱王丸は曽我の里で成長し、兄弟は「五つ列(つ)れたる鳥の中に、一つは父、一つは母、残りの三つは子供にてぞあらむ。(中略)母はまことのと母であるけども、曽我殿はまことの父にて無きこそ口惜しけれ。」と雁の群れを見て無き父を慕ったと伝えられている。真名本『曽我物語』には、この曽我の里での生活は厳しく「貧道」そのものであったことが記されている。『吾妻鏡』と『曽我物語』を読むと疑問点などが産出され、その事件の原点と経緯、そして本質を窺い知ることが出来る。それらを紹介していく。 ―続く