(写真:鎌倉 海蔵寺)
平家に仕えていたため平景清と呼ばれるが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏で伊藤景清ともいう。上総介忠清の七男であるため通称上総七朗で、建久三年(1192)正月に永福寺造営時に人夫に紛れで頼朝暗殺を計った上総五郎兵尉忠光(平忠光)の弟である。景清は、信濃守(1180)や兵衛尉を叙任されており、「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛であったとされる。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏勢の美尾屋十郎の錣(しころ:兜・頭巾の左右や後ろを垂れて首を覆う物)を引きちぎり「錣引き」が有名である。伝承によると壇ノ浦の敗戦後に自分を匿ってくれた叔父の大日房能忍(禅宗僧侶、日本達磨集の開祖)を疑心暗鬼にかられ殺害したため、その名が付いたと伝わる。大日房の「景清がすきな蕎麦を打て」を「景清を討て」と聞き間違い大日坊を切り、血の付いた刀を泣きながら洗った池として大阪市東淀川区に涙池残る。後世に景清を哀れに思う人々により供養する墓が同区の光用寺に在る。しかし近年、大日房能忍は病死、あるいは事故死とする説が有力である。
(写真:鎌倉 海蔵寺 守本尊観世音菩薩 景清守本尊碑
また、一説によると壇ノ浦で敗れた後に捕らえられ、和田義盛から八田邸に預けられ絶食して果てたと伝わる。また建久六年(1195)三月十三日、東大寺の大仏殿の落慶法要に景清が、列した源頼朝を暗殺しようと東大寺転害門に隠れていたという伝承もあり、石清水八幡宮に参詣した頼朝を狙ったとも伝えられており、石清水八幡宮には景清の碑が存在する。謎が多い人物である。また、『平家物語』において建久六年(1195)三月十三日、薩摩中務家資なる者が東大寺にて源頼朝を暗殺しようとして転害門にいたのを捕らえ六条河原で斬首されたと在る。これも『吾妻鏡』建久六年(1195)三月十三日条には記載は無く、景清と同一視される説もある。
(写真:鎌倉扇ヶ谷 水鑑景清居士と向陽庵大悲堂碑
海蔵寺に向かう道に化粧坂切通に向かうが道標があり、少し進むと途中に「向陽庵大悲堂碑」という碑がある。その二メートルほどの高さの崖ぶちに「水鑑景清居士」の墓標が建てられている。捕らえられた景清が鎖に繋がれ石牢に入れられたとされ「景清窟」と呼ばれる。「向陽庵大悲堂碑」の向陽庵は景清の娘・人丸姫が捕らえられた父に会うために京都から鎌倉に下ってきたが、会うことが出来ず、景清の死後、尼となって景清が幽閉されていた石牢の上に景清の守り本尊(十一面観音像)を祀ったところと伝わる。人丸姫は数年後に亡くなり扇が谷に葬られ、そこを「人丸塚」と呼ばれていたが、その塚もいつしか崩れ現在は安養院に預けられた(安養院の人丸塚)。向陽庵の十一面観音は江戸時代に旧鎌倉郡に設定され『鎌倉郡三十三か所」の札所の一つであり、向陽庵の十一面観音像は現在海蔵寺に祀られている。碑文は宝暦元年(1762)に鎌倉を遊覧した儒者・伊東藍田(らいでん)が書いたもので碑が立てられたのは明和二年(1765)である。現在の海蔵寺の駐車場に向陽庵があったのではないかと いう説もある。
(写真:鎌倉 海蔵寺駐車場)
『吾妻鏡』建久六四月一日条、年勘解由小路(かでのこうじ)京極において、結城朝光、三浦義村、梶原景時がこの十年余、行方をくらましていた平氏の家人前中務(平)家資親子をとらえたとの記述があり、これが『平家物語』において建久六年(1195)三月十三日、に捕らえられた薩摩中務家資なる者と考えられる。『吾妻鏡』は、一様、北条寄りに著作された歴史書であるが、『平家物語』は軍記物語で十三世紀初頭には、一定の原本(治承物語)が作成されていたが、その後も語り本(琵琶法師が全国を回り口承で伝えてきた)系や読み物本系(延慶本)が著作され、書写や加筆により誤記などが生じたと考えられる。
古典芸能において、「景清」または「何某誰々実ハ景清」が登場する作品が多くあり、一括して景清物と呼ばれ、能・歌謡には景清。大仏供養の(金春流『奈良詣』)幸若舞。人形浄瑠璃・歌舞伎の景清。近松門左衛門の「出世景清」。落語でも景清がある。関東以西に多くの景清の伝承が多く、人々を引き付ける何かが存在するのだろう。謎の多き人物である。 ―続く
(写真:安養院 人丸塚)