鎌倉散策 頼朝を狙った暗殺者二、越中次郎兵衛尉(平)盛嗣 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 

 上総五郎兵尉忠光の語った越中次郎兵衛尉(平)盛嗣は、伊勢平氏の出である。越中守平盛俊の子で、兄が平盛綱(高橋左衛門尉)で平清盛に仕え平家の侍大将として治承乱を戦い、治承五年(1181)に叔父である源行家が尾張で挙兵した時、ともに参加した源義円(源頼朝と異母弟で阿野全成、源義経と同母兄弟)を墨俣で討った人物である。木曽義仲の追討の戦いにも参戦したようだが、その後の消息を示す資料は無い。

 

 越中次郎兵衛尉(平)盛嗣は、平清盛、宗盛に仕え平家の侍大将として各地を転戦した。特に水島の戦いでは足利義清を討ち取った。屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢義盛との詞戦(嘲笑合戦)の逸話が残されている。壇ノ浦の戦いで敗北により自害を快く思わず京都に落ち延びる。その後は但馬国で潜伏しており、城崎郡気比庄(兵庫県豊岡市気比)の日下部通弘(気比道弘)に身分を偽り馬飼として支えたと言われる。そして盛嗣は気比弘道の娘婿となり平穏な暮らしを送っていた。『平家物語』延慶本において源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦めても誅しても参らせたるものには観賞在るべし」と記述されており盛嗣の行方を激しく追及している。気比道弘が盛嗣のことを知り二、三十人の配下で取り押さえられ鎌倉に送られたとされる。そして建久五年(1194)に、頼朝の面前に引き出された際、「今は運尽きてかように搦め召し候上は力及び候はず。とくとく道を召せ」と語り、由比ヶ浜で斬首された。しかし、『吾妻鏡』の建久五年条には、その記載はなく。鎌倉においても盛嗣に関する伝承や碑は残されていない。兵庫県豊岡市の白山山頂や白山神社に盛嗣公を供養した物とされる宝篋印塔が今も残されている。

  

(写真:鎌倉市今泉 白山神社。白山信仰は、北陸地方を主に社を有し、関東地方においては珍しい。今泉の鎮守社で、白山神社の守護虫とされる百足に模した大虫連(おおしめより)のしめ縄は、境内入り口に飾られ、その年の安寧と豊作を祈願される。)

 越中次郎兵衛尉盛嗣は、名を偽り平穏に暮らしており、源頼朝に対し暗殺行動の真偽は定かではなく、上総五郎兵尉忠光の語った名にあげられ、平家の落人狩りにあった人物として考えられる。平家の落人狩りは、一の谷、八島、壇ノ浦で戦った平家の将で、伊勢平氏の血縁者や侍大将、及びそれに準じる者には、徹底的に容赦なく行われたことが窺える。どこまで行われたかは『平家物語』『源平盛衰記』で見ることが出来るが、頼朝に寝返った武将等が存在し、諸兵に対しては農民に戻したり、すべてが対象であったわけではない。しかし、各地に残る平家の落人伝説があるが、資料が少なく多くは、後世に捏造された物と考えるべきである。 ―続く