鎌倉散策 頼朝を狙った暗殺者一、上総五郎兵尉忠光 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 上総五郎兵尉忠光という男がいた。父は藤原忠清という伊勢国に基盤を置き藤原秀郷流の伊藤氏の出身で平家の有力な家人であった。

 

(写真:鎌倉 永福寺蹟と永福寺予想図)

 忠光は『平家物語』『源氏盛衰記』の一の谷の合戦でその名が知られる。寿永三年(1184)二月五日、源頼朝の命を受けた東国軍は源範頼の軍五万六千騎と源義経の軍二万騎が摂津国に到着した。平家軍は、平資盛が率いる七千騎を摂津国三草山に布陣しており、その西三里(十二キロ)程に東国軍は布陣させる。義経は、田代信綱と土井実平に協議し、夜中に資盛軍を襲撃して敗走させた。そして、二月七日、午前四時に義経が選んだ精鋭七十騎が一の谷の裏山鵯越に到着し、午前六時に武蔵国大里郡熊谷郷(埼玉県熊谷市)の熊谷直実が子息直家と郎党一人の三人組で、また、多西群船木田平山郷(東京都日野市平山)の平山季重が一の谷の海側の道を平家館沿いに先陣を切り、大声で名乗りを上げ平家勢に襲い掛かった。先陣を取ることは武士にとって最大の恩賞を受け取ることが出来るため小族にとっては、恩賞にありつく格好の場であった。一の谷に陣取る平家の平忠光(上総五郎兵尉忠光)、平景清ら二十三騎が木戸を開けて合戦に至る。直実の子直家は負傷し、季重の郎従は若くして討ち死にした。源範頼の軍は、足利、秩父、三浦、そして鎌倉の武者が競って襲来し、源平の軍兵達は入り乱れ戦うことになるが、平家が構築した一の谷の城郭をたやすく破ることのできない状況であった。これに対し源義経の精鋭七十騎、三浦義連等を率い、義連は「三浦の方では、我らは鳥ひとつ立ても、朝夕可のようの所をこそかけ馳せ在るけり。かばかりの崖は三浦の方の馬場や」と檄し鵯越を駆け下った。この奇襲により、平家は、争うように海上に逃れ敗走に至る。

 

(写真:壇ノ浦古戦場源義経像と鵯越の三浦義連 ウィキペディアより引用)

 この時、先陣を争った武蔵の小族である熊谷直実は、萌黄匂の鎧を来た平家方の将と思われる武者が海へ馬を乗り入れようとしているのを見る。直実は武者に近づき「さてこそよき敵」と叫び、与して首を討とうとしたが、十六、七歳の若武者で、先ほど負傷した子息・直家と同じ年頃であった。直実は「なお名乗れば助けよう」というが、その若武者は「汝のためにはよい敵ぞ。ただ首を討て」と言い、味方が近づくに連れ、自分が助けたとも、しょせん誰かの手に討たれるだろと、意を決して若武者の首をあげた。それが清盛の甥にあたる敦盛であった。『平家物語』がかたる敦盛最期である。

 

 同年、六月七日に三日平氏の乱がおこる。伊賀国で平家残党が反乱を起こし、大内惟義は襲撃を受け、多くの家を殺害されたと七月五日に惟義の使者が鎌倉に伝えた。頼朝は七月十八日に平家の残党狩りを大内惟義、加藤景員、加藤景兼、山内経俊らに命じる。しかし、翌十九日には合戦となり平家方残党の富田家助・家能・家清・平家継を討ち取り平信兼とその子人・忠清らは逃亡した。この時、頼朝挙兵時から忠臣を示した佐々木四兄弟の父・佐々木秀義が討たれている。一の谷で、源範頼・義経と戦った平忠光の父が上総忠清であり、壇ノ浦の戦いの後に捕らえられ、文治元年(1185)五月十六日に六条河原で斬首された。

 

(写真:由比ガ浜)

 『吾妻鏡』建久三年(1192)正月二十一日条、――頼朝が新しく造営する御堂(永福寺)後に出かけられた。工事の間、土石を運んでいる人夫らの中に、左目が見えない男がいた。幕下(源頼朝)がご覧になって怪しまれ、「あの者はどこの国から誰が進めてきたのか。」と尋ねられた。そこで(梶原)景時が訪ねてみたがはっきりしなかった。(その男を)御前に召し寄せ、佐貫四郎大夫(広綱)に(頼朝が)御目くばせをして縛り上げさせると、懐の中に一尺あまりの打刀を忍ばせており、まるで寒氷のような(冷たく光る)ものであった。またその見えない目を見ると、魚の鱗を目の上にかぶせていた。(頼朝は)いよいよ害心が在るものであると認められ、尋問された。(男は)名乗って申した。「上総五郎兵尉(平忠光)である。幕下を殺害するために数日間、鎌倉中を徘徊していた」。すぐに(和田)義盛に(身柄を)与えて、同意の配を尋問するようよくよく命じられたという。――

『吾妻鏡』同二十四日条には、――武蔵国六連(むつうら:六浦)の海辺で、囚人の上総五郎兵尉(平)忠光を梟首した。(和田)義盛が奉行した。数日来(忠光は)食事を断っていたという。尋問したところ(忠光が)申した。「全く同意の者はいない。ただし越中次郎兵衛尉(平)盛嗣が昨年ごろ、丹波国に隠れ住んでおり、彼も同じく復讐の志を持っていようが、現在の(盛嗣)居場所は知らない。(盛嗣は)これまでも(居所を)一か所に定めていない」。 ―続く