哲学の道は若王子町で終わる。西に下り鹿ヶ谷通りまで行き南に永観堂・南禅寺方面へと下ってゆく。永観堂は、正しくは禅林寺、聖衆来迎山無量寿院(しょうじゅうらいむりょうじゅいん)という、浄土宗西山禅林寺派の本山であり、宗祖は法然上人である。創建は仁寿三年(853)空海の弟子真如(しんにょ)が文人であり書家であった藤原関雄が閑居していた山荘を買い取り真言密教の道場として開いた。貞観五年(863)に清和天皇より「禅林寺」の勅額を賜う。その後、寺院は火災により焼失・荒廃するが永観律師(ようかんりっし)が阿弥陀仏を本尊に浄土念仏の道場として奈良で盛んであった三論宗系の浄土系寺院として、再興し中興の祖となる。
永観は、自らを「念仏宗永観」と名乗るほど弥陀仏の救済を信じ、念仏の道理の基礎の上に救済活動を行った。当時、禅林寺は、南は粟田口、北は鹿ヶ谷に至る東山沿いの広大な寺領を有し、禅林寺境内に、薬王院という試施療院を立て病人や窮乏の人たちを救いその薬食の一助として梅林を育て「悲伝梅」と名付け果実を施すなど努力を惜しまない救済活動をおこなっている。本尊は、阿弥陀仏であり「見返り阿弥陀仏」と言われる。永保二年(1082)二月十五日の早朝、永観が五十歳の時、毎日の日課である行道という本尊阿弥陀如来の周りを、念仏を称えて歩いていると阿弥陀如来が須弥壇を下り、永観を先導するように、供に行同を始めた。永観は突然のことに驚き立ちすくむと阿弥陀如来は、振り返り「永観遅し」と声をかけられた。阿弥陀如来は見返ったまま「奇瑞の相を後世永く留めた前」と言いその尊要は元に戻ることはなかったとされる。永観はこの霊験から彫り作らせ、それが「見返り阿弥陀」と伝承された。本堂阿弥陀仏堂に安置され、その慈愛に満ちた容貌は、語りつくすことが出来ない。 幼少より秀才の誉れが高く山林衆の学匠として名声を得たが地位も名声も捨て東山禅林寺に隠遁した。十八歳の時から日課として一万遍の念仏を称え、後には六万遍もの念仏を唱えたとされる。禅林寺を永観堂と称するのは永観律師に由来し、親しみを込めたものとして由来している。
(写真:永観堂多宝塔と境内の地蔵)
真言宗から浄土宗に正式に改めるのは、真言僧であった静遍が法然上人に帰依し、その後、法然の高弟であった証空(血はつながらないが道元禅師の長兄又は叔父ともされる)の入寺によって浄土宗西山禅林寺派の母体を形成する。応仁の乱で伽藍諸堂は焼失するが明応六年(1497)から永正年間(1504-21)にかけ御影堂、書院、方丈、回廊が建立され、慶長十二年(1607)には阿弥陀堂が完成し、十九世紀には寺塔が整備され現在に至っている。東山の中腹にそびえる多宝塔に向かうには「臥龍廊」と呼ばれる回廊を上り開山堂、阿弥陀を配する。多宝塔からの京都をほぼ全貌する景観は、素晴らしいものである。また、秋の紅葉は、京都の中で名所として知られ、その彩にため息を隠すことが出来ない。特に夜のライトアップは、彩を映えさせる。当日は、大きな法要でも行われるようで、多くの檀家の人たちが訪れているようで、参詣を控えさせて頂き、南禅寺へと向かった。京都での時代劇の撮影には、妙心寺や、この南禅寺が多く使われ、平日の早朝に行われる。何度か撮影に出くわしたことがある。
(写真:南禅寺三門)
南禅寺は、臨済宗の総本山で、正式名称「瑞龍山太平興国南禅禅寺」と称し、東山の支峰である南禅寺山の緑樹を背景に大伽藍を西に向けて建立されている。南禅寺の地は古くは、園城寺(三井寺)の別院最勝光院があった地であるが衰徴してしまった。文永元年(1264)亀山天皇がこの地に離宮禅林寺殿を造営し、南禅寺山の山懐の風光を楽しまれたという。しかし、最勝光院に住んでいた者の死霊が出没したため亀山天皇は真言律宗の西大寺・叡尊を招き祈祷を行わせたがその効果は無く、続いて禅寺の東福寺三世無関普門を請じ、死霊は退散したという。亀山天皇は普門に帰依し、正応四年(1291)離宮を禅刹に改めた。開山は無関普門(大明国師)であるが、没後、二世規庵祖円が非地同伽藍を完成させ、南禅寺では祖円(南院国師)を創建開山としている。亀山天皇は「禅林禅寺起願書」に南禅寺十字は(住職)は、法派を問わず「器量卓越」のものを選ぶよう遺命した。この遺命に基づき「十方住持の制」が行われ各門流の名僧が南禅寺に集まっている。
建武元年(1334)後醍醐天皇が建武の新政の下で鎌倉中心の五山制度を改め京都の大徳寺と南禅寺が一位の寺格とし、建仁寺、東福寺などの諸寺が五山に加えられた。暦応四年(1341)足利直義により第一位を鎌倉建長寺と京都南禅寺、二位を鎌倉円覚寺と京都天竜寺、三位を鎌倉寿福寺、四位を京都建仁寺、五位を京都東福寺、準五位に鎌倉浄智寺を含めたとする。また二代将軍足利義詮の時にも五山制度の変動はあったとされる。
(写真:南禅寺本堂)
室町幕府三代将軍・足利義満が至徳三年(1386)臨済寺の寺格、鎌倉期の鎌倉五山を模して京都五山を制定した。南禅寺は別格とし、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺とし、鎌倉においては建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄明寺を五山に決め五山制度の根幹を成すに至る。室町幕府は五山禅寺に対して不入権や諸役の免除を認める一方、幕府の事務及び上納金などの財政支援を行う関係になった。しかし比叡山延暦寺・南都興福寺は、朝廷及び幕府と近い関係になった禅寺との対立が始まり禅寺の対明貿易などにより利益を上げ、勢力を伸長していった。しかし、これも応仁の乱で京都が焼失・荒廃が進み、再建されるのは安土桃山時代以降であり、石川五右衛門で有名で大きな三門は江戸期に入り再建されている。
(写真:南禅寺 水路閣)
南禅寺に今に残る建物は安土桃山・江戸期の物であるが、方丈や塔頭の金地院や天授庵等には、当時の最高峰を成す美術品と小堀遠州の庭等などがあり、それらを見るだけでもかなりの時間を有する。そして、私の学生時代から今も煉瓦造りの琵琶湖疎水の水路閣は恋人達のデートスポットである。この日も恋人達や結婚式の写真等の撮影に集っていた。この日は、時間的に方丈や塔頭を伺うことはできなかったが、その景色を感じただけでも愁いを覚え帰路に就いた。 ―完
(写真:南禅寺方丈で秋田県の快君、私のかっていた犬と同名で、なぜさせてもらったところ毛のふさふさ感が珍しく快君も喜んでくれたまだ一歳ほどと言う事)