十月十三日から自宅のある大阪に鎌倉から戻った。十四日は、ブログ配信後午後近くに京都に行き、東山を散策する。十五日は朝から歯医者に行きく。四十二歳の時にインプラントの歯を上顎の犬歯二本を入れ、その後三ヶ月に一度の定期検診を行っている。私自身、持病である膠原病は病診連携で現在鎌倉の医院に受診しているが、散髪と歯医者だけは、難しい。髪の形などに全く興味は無くごく普通で、前髪は眉毛まで、耳は出して後ろ髪はハサミで借り上げて下さいと言うだけである。散髪は、コロナの為に帰阪が三・四か月に一度になり間に合わず、勇気を出して鎌倉でお店を探し切ってもらっている。しかし、歯医者は、そうはいかない。
歯医者嫌いだった私が歯を二本も虫歯で亡くし、妻の行く歯医者は痛くないと言われ連れていかれた。入れ歯を入れなければならないと覚悟したが、その歯科医師から当時、流行りだしたインプラントの説明を聞き、インプラントを入れることにした。その時は、金額と手術の恐怖で不安に苛まれたが、今では、その歯が全く自分自身の歯のように全く支障がない。また検診に行くことで、順次虫歯を患った親不知四本も抜き、今は美味しいものを美味しく食べることが出来る。本当に歯は大切であり、今では歯ブラシ後には歯間ブラシまで使って大切に扱っている。
(写真:近鉄電車からの平城京跡 下三条「かえる庵」)
十五日金曜日、歯科医院で歯の点検と歯石等を綺麗に取り除いてもらう。一時間ほどかかり、その後、奈良に出かけた。目的は、蕎麦を食べに行くことである。昔から京都・奈良へは月は散策に出て、お昼に苦労する。京都は食べ物に苦労することはないが、奈良は寺院が遠方にあるため、門前に並ぶ茶店で食べる事しかできない。三輪山の大神神社などは、夏はそうめんで冬はにゅう麺と美味しく頂けるが、そういう店にありつくことが難しい。七年ほど前に奈良市を散策していると一軒のお蕎麦屋さんに巡り合った。下三条の「かえる庵」という店で、霧下蕎麦を十割使用した手打ち蕎麦を食べさせてくれる。霧下とは、地名ではなく山裾の標高五百メートルから七百メートルの高原地帯で昼夜の気温差が激しく朝霧の発生しやすい場所を霧下地帯と言う。そこで栽培された蕎麦を霧下蕎麦と言われ、冷涼な気候が蕎麦の香味と旨味を増す。蕎麦は霜に弱く、朝霧が発生するこの頃、実を優しく守る。また、火山灰地で水はけの良いことも美味しい蕎麦の実る条件であり、霧下蕎麦は鮮やかな緑色で香り高く念力があり最高の風味があると評される。妙高、黒姫、戸隠、基礎などが古くから産地として知られている(日穀製粉株式会社記事引用)。かえる庵は、御品書きは盛蕎麦、温盛蕎麦、釜揚蕎麦、柿の葉寿司、山菜稲荷、酒の肴のみである。夏は盛蕎麦と三品盛、冷酒、冬は温盛蕎麦と三品盛、燗酒で温盛蕎麦は暖められた石の皿(岩盤)に盛られているため体が暖められる。また、奈良の地酒が十数種類置かれ酒好きにとっては格好の店である。酒の肴の三品盛は、法蓮草のお浸し、木綿豆腐、昆布の佃煮であるそして最後に蕎麦湯が霧下蕎麦を湯がいた芳香を楽しむことが出来る。
日本酒は辛口が好まれ、大吟醸は精米歩合四十五パーセントとお米をほぼ半分以下に削り、あまりにも高価な値段が付き、飲みやすさだけが問われ、本来の酒の味は無くなったように思われる。しかし、京都伏見の酒や奈良の酒は、今も昔の清酒の味を残し旨い。このかえる庵での私のお勧めは、「僧房の酒」で、興福寺の五百年前の多門日記により再現して作られた酒で、奈良県産露葉舞を使い、使用酵母山乃かみ、精米歩合九十五パーセントで、八段仕込みでアルコール分十六パーセントの酒である。色合いは金色を思わせ、山廃仕込みの原点であるかのような、旨味と甘味を感じさせてくれる旨口の酒である。ご主人と女将さんと久しぶりの挨拶をして、二合の酒をいただいた。今日の蕎麦は、今年の新蕎麦との事であり、やはり美味しかった。
(写真:興福寺三条通りから 延命地蔵と三重塔)
店を出て、その後、三条通りを上がり、各店々を覗き見て興福寺に行く、十月に『鎌倉散策』で 鎌倉の仏像四、慶派の躍進と特徴で、興福寺の北円堂、弥勒如来像の脇侍する無著(むじゃく)、世親(せしん)の像を記載させていただいた。明日の十月十七日から公開されるとあり、大変残念であるが飛行機の予約もしているため午後の晴れた蒸し暑い境内を散策した。
(写真:興福寺南円堂と北円堂)
無著・世親の兄弟は、四世紀頃の人とされ北インドで弥勒から大乗仏教の空想思想を学び、他の人々にも弥勒が直接『瑜伽師地論』(『十七地経』)を説くよう要請し無著がその解説を行う。これが唯識思想流布の端緒とされる。世親は、部派仏教の説一切有部で学び有部一の学者として高名をはせたが、兄無著の勧めで大乗仏教に転向し大乗仏教唯識派の高僧である。後の仏教の発展に多大なる貢献を成す。
「承元二年(1208)に興福寺北円堂の諸像の造作が東大寺・興福寺の南都復興事業の完結であった。特に興福寺北円堂の弥勒如来像の脇侍する無著(むじゃく:一九四・七センチ)・世親(せしん:一九一・六センチ)兄弟の立像は、運慶の指導の下に無著像が運慶の六男・運助、世親像が運慶の五男・運賀による造作したとされている。無著・世親兄弟は、釈迦入滅後約千年を経た五世紀頃、北インドで活躍し、法相教学を確立した。この両像は、桂材、寄木造、彩色、玉眼の手法を用い、奈良仏師集団の慶派が天平彫刻の写実性と後人彫刻の地から強い量感を合わせ持っている。また、玉眼が嵌められた事で自然と人間らしく、教学に自信に満ち溢れた強烈な姿を示しており、日本肖像彫刻史上において最高傑作というにふさわしい。そして、四天王立像も運慶率いる慶派の一門により最盛期の技術が用いられた。」
(写真:興福寺 無著・世親像ウィキペディアより引用 五重塔)
そして、次に奈良から京都へ向かう。JRで行くと「みやこ路快速」という列車に乗り五十分ほどで京都に着く。奈良と京都の田園風景を見ながら行くが、強い西日が連日の暑さをそれ以上にさせた。京都では、今夕、コロナ感染症の営業自粛も段階的に解除され、友人三人で四条高瀬川沿いの行きつけだった店で、久しぶりの会食をした。来年暖かくなった時に皆が一度鎌倉に来たいと言う事で話は盛り上がった。翌土曜日は、一日自宅で過ごし家族と夕食を取る。そして、日曜日の朝には自宅を出て飛行機で羽田に着き、昨日とは違い気温は低く寒気を感じた。予想していたため慌ててカーデガンを着込み鎌倉に戻る。雨が今にも降りそうな天気であったが、無事鎌倉の住居に還ることが出来た。久しぶりの帰阪も楽しかったが、二年半ほど鎌倉に住み住居に戻ると何故かほっとする感じがする。これからの季節、鎌倉も多々行事があり、次に大阪に戻るのは一月下旬ぐらいだろう。
(写真:興福寺東金堂と中金堂)