鎌倉散策 鎌倉歳時記 京都散策、三、鹿ヶ谷と哲学の道 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 銀閣寺、法然院、安楽寺を歩き、鹿ヶ谷に下ると哲学の道に至る。平安末期から中世の初期にかけて事件が起こった場所である。時代はさかのぼるが平安期の末の安元三年(1177)鹿ヶ谷の陰謀で平家の打倒の謀議この地の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われた。承安元年(1171)、平清盛の娘徳子が高倉天皇の后として入内し、翌二年二月十日、立后を経て中宮になる。清盛は皇子が生まれるように、毎月、福原から厳島神社に参詣に出かけたという。それから六十日ほどして中宮の御懐妊が伝えられ、治承二年(1178)十一月十一日、六波羅邸で皇子(安徳天皇)が生まれた。清盛は願い通り天皇の外祖父となる。

 

(写真:京都鹿ヶ谷 法然院と安楽寺)

 当時、謀略好みの後白河法皇は、藤原成親(中納言藤原家成の子)を男として、なみならぬ寵愛をおこなう。成親は年も若く殿上人であったが、平治の乱で藤原信頼に付き従っている。平治の乱で敗れたのち罪科を下されるはずであったが、平重盛室の兄と言う事と助命され、解官にとどまった男であった。その後、後白河法皇に寵愛され成親は神鏡を持ち出し逃亡した源師仲を赦免させて呼び戻している。また、信西の最後まで従った師光・成景は出家し西光・西景となり法皇に召し使わせている。そして、平康頼と言う猿楽に熱中する男も検非違使として使わせ、法勝寺の修行であった俊寛と言う僧を僧都(そうず:僧正に継ぐ僧綱の地位の一つ)にした。信西の子で蓮華押印の執行を務めていた静賢(じょうかん)法印が建てた鹿谷の山荘に後白河院もよく出かけられており、静賢法印は聡明で、出すぎず、真実の道を体得した人として法皇からも平相国(清盛)からも信頼されていた人物であった。

 

(写真:京都哲学の道)

 この山荘で、法皇に付き添って成親・西光・西景などが集まり、様々な謀議を行っていたとされる。安元三年六月、摂津源氏の棟梁・4源満仲の子孫で多田蔵人源野行綱が、そこに呼ばれ「旗揚げの用意をされよ」と源氏の白旗の材料に布三十段を与えられた。しかし行綱はそれを持って摂津国の福原に走り平相国に伝えた。安元三年六月二日、西光を捕え八条の堂で拷問にかけ、全てを白状し、自白した内容を文書に書かせ、書き判を書かせた後、朱雀皇子に引き出し斬首した。これが鹿ヶ谷の変である。西光が処刑される前日、平重盛は成親を呼び出し郎等に命じ、縛り上げ拘束した。その日、重盛、頼盛の前に引き出され「何事でございましょうか、呼び出しがありましたので参上しました」と重盛は「今回もお命だけは大丈夫であるよう口添えをします」と慰めたと言う。重盛の妻は成親の妹であった為に平治の乱でも助けている。しかし、成親は備前国に送られ七日ほど食事が与えられず亡くなった。俊覚と検非違使の康頼は硫黄島(鹿児島県鹿児島郡三島村の小島)に流された。

 元号を治承に改元され、治承三年(1179)八月一日、平清盛の嫡子小松内府重盛が没した。後白河法皇は清盛に相談無く重盛が領有していた越前国を取り上げ、関白藤原基房が八歳のわが子、師家を中納言に昇進させた。清盛は鹿ヶ谷の変のこともあり、激怒した清盛は同巻鎧で上洛する。清盛は、治承三年十一月十九日、法皇を鳥羽殿に幽閉して、院政を停止した。翌二十日には右大臣九条兼実の子息二位の中将十二歳の良通を中納言右大将に任官の除目を行った。清盛の暴挙であるが後白河法皇の道理を外した院政を終わらせ、百余年続いた院政にも終止符を打ち、六波羅政権が始まりだしたが、重盛を失った平家には終焉の影が見え始めていた。

 

 鹿ヶ谷は当時東山の裾野辺りの地で、ひっそりと小庵、山荘がわずかに作られた幽玄の地であったのだろう。今は、少し京都の町を見渡すことが出来る住宅街で、真如堂、吉田山そして夕方には西に沈む夕日が美しく見ることが出来る。琵琶湖疎水沿いの哲学の道は、春になれば大島桜、秋は紅葉と季節の彩を見せてくれる。桜餅の葉は、この大島桜の潮付けにした葉が用いられる。この道は、私が学生時代からよく歩いた道で、哲学者の西田幾太郎氏がよく散策したみちで、歌碑が残されている。禅研究でも有名であるが、またいつか西田幾太郎氏の話を綴りたいと思う。西田氏は京都から鎌倉に移り、昭和二十年(1945)六月二日に鎌倉市極楽寺姥ヶ谷の自宅書斎で尿毒症の発作を起こし五日後の六月七日に死去した。墓標は東慶寺に納められている。

 

 哲学の道は、休日になると、すごい賑わいになる道であるが、平日のこの日は訪れる人も少なく、昔歩いた時のことを思いだす。この哲学の道の南端の近くに、昔、俳優の栗塚旭さんの喫茶店「若王子(にゃこうじ)」があった。哲学の道を下ると、かなり広い敷地にたたずむ喫茶店で、三角屋根の塔に時計と風見鶏があった記憶がある。栗塚さんは司馬遼太郎の『燃えよ剣』『新撰組血風録』などで土方歳三役を演じ、今でも土方歳三といえば、物静かでありながら、鋭い目と台詞の一言に重みのある栗塚旭さんを思い浮かべる。私が小学生の頃に祖父と見て、その格好良さに私が時代劇ファンなった最初の作品だった。『暴れん坊将軍』などにも出演されており、NHKの大河ドラマ『新撰組』で、土方歳三(山本耕史)の兄・為次郎役としても出演された。その時、土方役を演じた山本耕史さんが二十七歳で、栗塚さんも二十七歳の年に演じたことで「何も恐れることはないし、堂々と演じたらいい」と励ましたという。実は私は栗塚さんに、この店で三度お会いした。にこやかで優しい物言いで接していただいたことが思い出される。山本耕史さんに励ましたという言葉は、もっと優しい言い方だったと思われる。この店は、栗塚さんのお姉さんが実質的に切り盛りをされておられ、平成十四年(2002)にお姉さんが御病気になられ休業され、その後店は開かれることはなかった。今は、ほとんど気か付かないほど建物が廃屋となり当時の面影はないが、苦めの濃いコーヒーにクロワッサンのパンが付き当時を思い出させた。昨年、クリスマスにテレビで『燃えよ剣』が放映され、解説にサンタクロースの姿をして出演されていた。御高齢になられたが、今でもお元気そうで安心した。 ―続く