鎌倉散策 鎌倉歳時記 京都散策、二、法然院と安楽寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

  

 京都東山は、中世の鎌倉期の鎌倉新仏教の一つ浄土宗開祖である法然のゆかりの地が多く点在する。銀閣寺の総門を出て左に折れ少し閑散とした住宅地を行くと法然院にたどり着く。法然院は山号寺号が善気山万無教寺と称し、今は単立寺院である。鎌倉期に入り荒廃するが、延宝八年(1680)江戸期の四代将軍・徳川家綱の時代に知恩院三十八世の万無心阿の弟子・忍徴により中興開山された。六時礼讃(ろくじらいさん)と言う一昼夜を六部した時刻で、日没(にちもつ)申から酉の刻、初夜(しょや)戌から亥の刻、昼夜(ちゅうや)子から丑の刻、後夜(ごや)寅から卯の刻、晨朝(じんじょう)辰から巳の刻で、仏を礼拝し声明を称える事で、往生礼賛偈(おうじょうらいさんげ)ともいう。四六時中と言う言語の一つになっている。

  

 茅葺の山門をくぐると白い砂で造形された二つの白沙段(はくしゃだん「百砂檀」とも)があり、独特な特徴を示す。小さな寺院であるが、季節に応じその様相を変える美しい寺院であるが、特に秋の紅葉の時期は、その佇まいにため息をつく美しさを秘めている。拝観は自由であり、季節に応じ休日には、多くの人々が拝観に来る。墓地に作家・谷崎潤一郎の墓所が静寂の中に佇む。

そこから、小道を南に少し行くと安楽寺があり、少しの勾配を持つ石畳の坂の上に茅葺の山門が現れ、ここが安楽寺である。通常拝観は行われておらず、七月二十五日と春と秋の特別拝観が成されている。

 

 『法然上人行状絵図四十八巻』で建永元年(1206)十二月、後鳥羽上皇の熊野詣での留守中に法然門下の住蓮と安楽が東山東山鹿ヶ谷で念仏法会を催す。住連と安楽の両僧が勤める六字礼賛の声明は美しくも哀しい深い感銘を与えて多くの参詣者を集めていた。後鳥羽上皇の官女(女房)鈴虫十七歳と松虫十九歳の姉妹が密かに宮中を出て、この法界に参加をして上皇の許しも無く剃髪して出家してしまった。鈴虫、松虫は教養も高く容姿も美しかったため、この事件で後鳥羽上皇の怒りをかい、承元元年(1207)に後鳥羽上皇の断により念仏停止が下され住蓮・安楽は斬首されている。そして、この事件により法然は七十五歳で土佐国に配流となり、親鸞は佐渡に流された。

  

 この事件に対し、住蓮と安楽は、官女の鈴虫、松虫を淫行したと語る者あるが、梅原猛氏の『法然の哀しみ』で、『法然上人行状絵図四十八巻』、には安楽・住蓮の記載があるが、少し後に作られた法然の伝記『知恩院伝』には、全く違った経緯が成されているという。また『四巻伝』においては、この法界の記載は無く、無実であることを示唆されている。住蓮・安楽の禄持参例の法界は多少怪しいが、住蓮・安楽の資材に対し法然の流罪に深い因果関係を占めだれている。鈴虫、松虫の出家が死罪に値するものか、また後鳥羽上皇の『報恩経大光明因縁』という本に「住蓮・安楽を召し取られ了んぬ。この条は啻山門衆徒の鬱憤のみにあたらず、聊か讒臣(いささかざんしん)、叡情を故なり、その濫觴を尋ねれば、太上天皇、熊野に御参詣の隙を似て小御所の女房達は住蓮・安楽等を招請し念仏の聴聞あり。還御の後にこの由を聞こし召され甚だ以て逆鱗あり、是より巳後、念仏は御気色叡襟に背き畢(おわ)んぬ。住蓮等は上人の御弟子なり。その身において全く過なく犯無ききところ、誹謗の輩あり、無実讒奏をいたす故に忽ち勅勘を蒙り召籠さるる条、偏に佞臣(ねいしん)の君を誤ち浮雲の白日を幣(かくす)が如し(『知恩伝』「住蓮安楽被行斬刑事」)」。

 

 この書において鹿ヶ谷礼讃の法界を語っておらず、また、誹謗する佞臣があって無実を讒奏するものがあったとしている。その者が黒幕であり、時の権力に精通しながら助言を与えられる人物として慈円であったと考えられた。慈円は関白九条兼実の同母弟で慈円の『愚管抄』においても、住蓮・安楽の淫行の記載は無いとしている。慈円と法然は、元は比叡山で学び、懇意にしていたとされ、法然の流罪が赦免された後に慈円が法然を東山の青蓮院に住まわせ、そこで死去した。梅原氏は法然に対する慈円の記述に容易に流言として受け止められないが、法然に対し悪意を窺わせるとしている。

  

 『愚管抄』の法然上人と念仏宗を見ると建永年間の事、法然房(現空)と言う上人があった。京の市中に住んで、近年になって念仏宗を立て、専修念仏と称して「ただ阿弥陀仏とだけ唱えるべきである。それ以外のこと、顕密の修行はするな」と言う事を言い出したのである。ところがこの専修念仏の教えは、異様な、理非にもかかわらず智慧もないような尼や入道に喜ばれ、ことのほか繁盛に繁盛を重ねて、教団は急速に大きくなり始めた。その仲間に安楽房(中原師広、遵西)という者がいた。安楽房は(高階)泰経入道に仕えていた侍で入道して専修の修行僧となったものであったが、住蓮と一組になって、六時礼讃は善導和上(唐の浄土教家)の教えられた行法であると言って、それを布教の中心とし、尼どもの熱烈な帰依を受けるようになった。ところが尼どもは教え以上のことを言いふらし、「専修念仏の修行者となったならば、女犯を好んで魚鳥を食べても、阿弥陀仏は少しもおとがめにならない。一向専修の道に入って、念仏だけを信ずるならば、必ず臨終の時に極楽にお迎えに来て下さるぞ」といい、京も田舎もすべてにこのような教えが広まっていったのである。そうするうちに、院の子御書の女房(伊賀局)や仁和寺の御室(道助法親王)の御母(後鳥羽上皇妃。坊門局)などといった人々もいっしょになってこの教えを信じ、密かに安楽房などという者を呼び寄せてその教えを説かせて聞こうとしたので、安楽房の方も同輩を連れて出かけていくようになり、夜になっても僧どもをとどめておくようなことが起こったのである。それはあれこれという言葉もないありさまで、ついに安楽・住蓮は首を切られたのであった。法然上人は流罪となり、京の中にいてはならぬとして追われてしまった。流罪のことも、後鳥羽上皇のしかるべきご処置があったのに、法然を支持する人々がすがって少し手心を加えられたように思われる。しかし、法然の味方はあまりに多く、赦免されて後に東山の大谷というところで亡くなった。その時にも往生だ、極楽往生だと言いたて人が集まったが、しかるべき往生の証拠は現れず、臨終に際しての振る舞いにも、増賀上人などのように取り立てて言うべきことはなかったのである。しかしこのような臨終に人が集まったりしたので、この教えの影響は最近まであとを引いて、いまだに大方の魚鳥を食い、女犯を行う専修念仏の禁止ができないだろうか、比叡山の衆徒が決起して空阿弥陀仏(法然の弟子)を中心とする念仏の信者を追い散らそうとし、念仏の信者どもが逃げまどったりしているようである。

 

  

(写真:ウィキペディアより引用 慈円像)

 だいたい東大寺の俊乗房(重源)も、自分は阿弥陀仏の化身であると言い出し、自分の名を南無阿弥陀仏と名乗り、上に一字を置いた空阿弥陀仏・法阿弥陀仏などという名を誰にでもつけてやったので本当にそのままそれを自分の名とした尼や法師も多かった。果てには法然の弟子と言って魚鳥女犯のようなことなどをしはじめたのを見ると、本当にそこに仏法が滅びていく姿が現れていることは疑わない。これを考えてみると、悪魔という者には、人々を従わせていく悪魔と、物事に逆らう悪魔とがあり、ここでは人々を従わせて行く悪魔が悲しくもこういう教えを広めているのである。あみだぶつのおしえのみがひろまり、それによって得られる救いのみが増していくということが真実であるような世には、本当に阿弥陀仏の救いで罪障が消えて極楽へ行く人もあるだろう。しかしそのような世にはまだなっておらず、真言と天台の教えが盛りであるときに悪魔の教えに従って救いを得る事の出来る人は決してあり得ない。悲しむべきことである。さて九条殿(兼実)は、法然上人の時薦める念仏の教えを信じて、法然上人を戒師として出家をなさった。その後、仲国の妻のことに驚きあきれ、法然の流罪のことを嘆いたりしておられたが、久しく病床に伏して起居も思うようにならない御様子のうちに、法然の流罪が行われた建永二年(1207)の四月五日、立派なご臨終を遂げられたのであった(慈円 大隈和雄躍『愚管抄 禅現代語訳』)。

 

私には、『愚管抄』において、慈円の道理に基づいた当時の客観的な説明のように思えるのだが。この安楽寺も、その後、多くの迫害を受けたと思われ荒廃するが江戸中期の延法九年(1681)に、住連と安楽両僧の菩提を弔うため現在の地に本堂等を建立されている。 ―続く