運慶は、円城寺の大日如来像銘中に大仏師康慶実弟子」とあり、実子である弟子として解釈されている。長男・湛慶が京都市妙法院蓮華王本堂(三十三間堂)本尊の台座銘から承安三年(1173)の生まれであることが知られ、運慶の生まれが十二世紀の中頃の久安年間とされる。慶派一門にて運慶を語れば、快慶を語らざるを得ない。しかし、快慶についても、生没は不明で、現存する資料はほとんどなく、造作された仏像にその姿を垣間見るしかないのも快慶の魅力の一つともいえる。
運慶と快慶は、兄弟のように語られることがあるが、先述したように運慶は、康慶の実子であり、弟子である実弟子である。快慶は康慶の弟子であり、両者に血縁関係は無く、運慶とは兄弟子にあたる。快慶は、康慶を師と仰ぎ、また運慶を兄弟子と仰ぎ運慶を助け、慶派一門の繁栄に大きく貢献している。それは建仁三年(1203)東大寺南大門金剛力士像の「阿形(あぎょう)像」が運慶、快慶の作と伝わり、良好な関係が無ければ、金剛力士像の対策は完成するはずがなかった。「吽形(うんぎょう)像」は運慶の弟・定覚、運慶の子・湛慶の作と伝わり、この人選を見れば年齢的なつり合いと技術的な均衡が読み取れ、また技術的な面組み合わせも考えられる。年齢的に運慶が年長であり、弟の定覚、快慶、運慶の子息・湛慶と続いたのではないかと考える。しかし、運慶の兄弟弟子であった快慶は、慶派の天才仏師で重要な人材であったことに間違いない。
(写真:「運慶願経」奥書、東大寺南大門金剛力士像「阿形像」ウィキペディアより引用)
快慶は、資料上の初見は寿永二年(1183)の「運慶願経」である。仏師運慶が願主となり制作された法華経八巻の巻八巻末尾の奥書に結縁者の一人として「快慶」の名がみられる。快慶は、東大寺大仏を再興した大観進(総責任者)であった重源と関係が深かったとされ、東大寺及び重源が東大寺別所に開いた寺院に造仏が多く残されている。快慶は熱心な阿弥陀信仰の持ち主で自ら安阿弥陀仏を名乗り造仏に明記している。運慶と快慶の技術力に差は無いと思われるが、建仁三年(1203)東大寺南大門金剛力士像の「阿形(あぎょう)像」の造立以降、運慶とは異なり東国の有力寺社の仏像よりも、民衆が浄財を持ちよせて作る小さな阿弥陀仏を特に多く作った。丁寧で基本に則した仏像が特徴で、運慶のように芸術的な造形を求める活動は行っていない。動の運慶と静の快慶とも特徴を見ることもできる。東大寺南大門の金剛力士像に携わるまでは位階を授与されず、無冠のまま活躍した。このように快慶の造仏は三尺(約一メートル)以内の小さな仏像で、阿弥陀如来立像を多く造作している。奈良・京都が中心であるが各地域の多くの寺院で快慶の造立した事で、芸術性を求めた大きな造仏の運慶よりも快慶の仏像が多く現存している。運慶の作品を見ると
(写真:東大寺僧形八幡神坐像ウィキペディアより引用、東大寺大仏殿)
初期「仏師快慶」銘
・ボストン美術館蔵 弥勒菩薩像 文治五年(1189)
「巧匠安阿弥陀仏」銘
・京都醍醐寺三宝院 弥勒菩薩坐像 建久三年(1192)(像内朱書銘)「巧匠安阿弥陀仏」(安は梵字)で記載するようになる。重文
・滋賀県 石山寺 大日如来坐像 建久五年(1194)頃(像内墨書)重文
・兵庫県 浄土寺 阿弥陀三尊立像。建久六―八年(1195-1197)頃 浄土寺縁起国宝
・和歌山県 金剛峯寺 孔雀明王像 正治二年(1200)(像内朱書、高野春秋)重文
・奈良県 東大寺八万堂 僧形八幡神坐像建仁二年(1201)(像内墨書)国宝
・広島県 耕三寺 宝冠阿弥陀如来坐像建仁元年(1201)(像内墨書)重文
・兵庫県 浄土寺 阿弥陀如来立像(裸形像)建仁元年(1201)頃(浄土寺縁起)
・三重県 新大仏寺 如来坐像、東部のみ当初の物 建仁二年(1202)(東部内面墨書)
・奈良県 東大寺南大門 金剛力士像、建仁三年(1203)阿形像が運慶、快慶の共同作、国宝
・奈良県 東大寺俊丈堂 阿弥陀如来立像 建仁三年(1203)(像内墨書)重文
・奈良県 安倍文殊院 文殊五尊像 建仁年間(1201-1203)(像内墨書)国宝
・京都府 松尾寺 阿弥陀如来坐像(頭部内面墨書)重文
・奈良県 西芳寺 阿弥陀如来立像(足枘墨書)重文
・大阪府 八葉蓮華寺 阿弥陀如来立像(足枘・像内墨書 重文
・奈良県 安養院 阿弥陀如来立像(足枘墨書)重文
・和歌山県 遍照光院 阿弥陀如来立像(足枘墨書)重文
・栃木県 真教寺 阿弥陀如来立像(像内墨書)
・東京都 東京芸術大学 大日如来坐像(像内墨書)
・京都府 如意寺 地蔵菩薩坐像(像内墨書)
・メトロポリタン美術館蔵 地蔵菩薩像(像内墨書)
・和歌山県 金剛峯寺 四天王立像の内広目天(広目天像足枘・像内納入書)重文
・京都府 金剛院 執金剛神立像(足枘墨書)重文
・京都府 金剛院 深沙大将立像(足枘墨書)重文
・和歌山県 金剛峯寺 執金剛神立像(像内墨書)重文
・和歌山県 金剛峯寺 深沙大将立像(重源『南無阿弥陀仏作善集』に執金剛神立像と深沙大将立像が安置されていたことが記録による)重文
(写真:兵庫県浄土寺 阿弥陀三尊像、メトロポリタン美術館蔵 地蔵菩薩ウィキペディアより引用)
「法橋快慶」銘 法橋叙任は建仁三年(1203)
・奈良県 東大寺光慶堂地蔵菩薩立像(足枘墨書)重文
・大阪府 大圓寺 阿弥陀如来立像(足枘墨書)
「法眼快慶」銘 法眼叙任は承元二~四年(1208-1201)
・岡山県 東寿院 阿弥陀如来立像 健暦元年(1211)(足枘墨書)重文
・奈良県 光林寺 阿弥陀如来立像 承久三年(1221)(足枘墨書)重文
・和歌山県 光台院 阿弥陀三尊像 承久三年(1221)頃(中尊足枘刻銘、左脇侍足枘墨書)重文
・奈良市健 唐招提寺子院西方院 阿弥陀如来立像(足枘墨書)重文
・京都府 佛光寺塔頭大行寺 阿弥陀如来立像(足枘墨書)重文
・滋賀県 圓常寺 阿弥陀如来立像(足枘刻銘)重文
・アメリカ キンベル美術館釈迦如来立像(足枘墨書)
・大阪府 藤田美術館 地蔵菩薩立像(足枘墨書)興福寺伝来 重文
・京都府 随心院 金剛薩埵坐像(像内朱書)重文
・京都市 大法恩寺 十大弟子像の目犍連、優婆離(目犍連像足枘墨書、優婆離像像内墨書) 重文
(写真:奈良:東大寺 地蔵菩薩像ウィキペディアより引用、唐招提寺)
他にも快慶の作と言われる仏像、また可能性のある仏像が数体存在する。現在は運慶と並び称されるが慶派の中では運慶は直系の棟梁であるのに対し、快慶は慶派工房の有力な一技術者であった。この当時、自らの工房を開いたかは不明であるが、弟子として行快、長快、栄快が挙げられ、また良快、快尊、覚円も慶派に関する系図に快慶の弟子と指摘されている。行快は健保七年(1219)快慶が大和長谷寺の十一面観音像再興に関する記録に「大仏師快慶」と左(祐)法橋 行快」と快慶を補佐する立場であったと記され、光背を担当している。嘉暦三年(1227)京都府の極楽寺で阿弥陀如来像を造立している。建長八年(1256)に長快は栄快と共に運慶の子息・湛慶に従い奈良東大寺の講堂、文殊菩薩像を制作したが現存していない。承久三年(1221)頃、京都市 大法恩寺(千本釈迦堂)で諸像制作に行快、長快、栄快が参加している。快慶の大法恩寺 十大弟子像の目犍連、優婆離像造仏に参加したと考える。建長六年(1254)には滋賀県長命寺地蔵菩薩(奈良国立博物館委託:重要文化財)が現存し、銘記から栄快の作と知られる。
快慶は、承久三年以降の作品が残されていないため、寿永二年(1183)の初見の「運慶願経」に名が添えられていることから、およそ三十八年間の仏師として名を残したことになる。この時代の鎌倉の造仏に影響を与えた運慶と快慶が並び評されるが、人それぞれ好みがある。動の運慶、静の快慶として日本の造仏彫刻で彼らを超える者は、その後現れていない。 ―完