(写真:奈良 円城寺)
奈良仏師の康慶率いる慶派は、康慶の実子、そして弟子として運慶が天才的に仏像造作を行い、新たな仏像表現を生み出した。運慶が単独で仏像造作を行ったのは安元二年(1176)に完成させた奈良の円城寺の大日如来座像である。もっとも古い作と伝えられている。運慶の生誕が久安六年(1150)頃とされ、それに合わせると二十六・七歳であった。本来なら三ヶ月ほどの製作期間が、十一か月を費やしたという。
(写真:奈良 円城寺宝塔 大日如来座像ウィキペディアより引用 扁額)
この四年後の治承四年(1180)年十二月二十八日に平清盛の命で、平氏の政権に反抗的態度を取り続けた東大寺と興福寺に平清盛の五男・平重衡に焼き討ちを命じ、平重衡により焼き討ちが行われた。この事件の背景には、平治の乱以降、大和国は平清盛の知行国となる。その際に南都寺院の持つ旧来の特権を無視し大和全域に検断(けんだん:警察・治安維持・刑事裁判にかかわる行為と・権限・職務を総称する)を実施した。東大寺は聖武天皇の発がんにより国家鎮護の象徴的な官寺であり、歴代の天皇からも崇敬を受けてきた。また興福寺は藤原氏の氏寺で、皇室と摂関家の権威を背景に武装組織である僧兵を持って反抗しる。治承三年(1179)十一月、鹿ヶ谷の事件以来、謀略好きな後白河法皇に対し、平清盛が軍勢を率いて制圧した治承三年の政変で後白河院政が停止した。平家に対する急先鋒であった関白松殿基房が太宰権師に左遷の上で配流、師長・源資賢が追放された。東大寺と興福寺にも危機感が広まり、治承四年(1180)五月二十六日に以仁王の挙兵により円城寺及び諸国の源氏と共に反平家活動を強めた結果この事件が起きている。今からこの事件を検証すると、新興勢力の平家と旧特権を保持したい南都側の東大寺と興福寺の抗争の結果であり、平清盛はできる限り穏便に収束する気配が窺えるたが、南都大衆・僧兵の無謀な抵抗により、現在の奈良市の大半が焼失してしまい貴重な遺産が灰塵と化す事態に及んだ。
(写真:鎌倉 教恩寺)
鎌倉には、平重衡とゆかりのある教恩寺があり、平重衡は源平合戦で捕らえられ、門前の案内板に書かれた分を引用して紹介させていただく。「平重衡とのゆかりがある寺院で、平清盛の五男で、自らの容姿を牡丹の花にたとえ優しく爽やかで、しかも凛々とした武勇を誇る平家の副将軍であった。重衡は一の谷の戦いで敗れ、撤退の祭、梶原景時に捕らえられ、鎌倉に護送された。頼朝の尋問に対しても武将らしく堂々たる態度と、優雅な物腰の立派な人柄は、頼朝を感嘆させ、捕らわれた身であるが特別な待遇を受けた。頼朝の仕女である千手を侍らし酒宴を許されたという。この酒宴が縁で重衡と千手の二人は恋に落ち、重衡が護送されるまでつかの間、癒された日を過ごすことができたと言われる。やがて重衡は奈良へ護送され文治元年(1185)六月二十三日、木津川のほとりで斬首処刑された。その後の千手の足取りは定かではなく、悲しみのあまり床に伏し、そのまま生涯を閉じたとも、また出家したともいわれ、儚い悲恋の逸話があり、その酒宴を催した場所が教恩寺と伝わっている」。本堂に安置されている本尊阿弥陀如来像は鎌倉時代前期の作で運慶作と伝えられている(県重文)。頼朝が重衡に一族の冥福を祈るよう与えた像とされ、重衡も厚く信仰したという。清盛の命により東大寺・興福寺の南都焼討を行ったことにより南都衆から深く恨みを買うことになった。南都衆がその引き渡しを求め、文治元年(1185)六月二十三日、木津川で東大寺の使者に引き渡され即刻斬首された。重衡享年二十九歳であった。また、吾妻鏡に文治四年(1188)四月二十五日に亡くなったことが記載されている。「廿五日 辛卯 今曉千手前卒去す〔年廿四〕。その性はなはだ穏便にして人々の惜しむところなり。前故讃井中将重衡参向の時、不慮に相馴れ、かの上洛の後、恋慕の思い朝夕休まず。怨念の積もるところ。もし発病の因たるかの由、人これを疑うと伝々。」『全譯吾妻鏡』第二巻(新人物往来社刊)引用。吾妻鏡で女性の記述を記すことは珍しく、彼女の人柄の良さを表したと考える。
(写真:奈良興福寺)
平家滅亡後、源頼朝は、その復興に寄進・助成をおこなっている。南都復興事業に円派・院派の仏師達と共に慶派の康慶は、造像を請け負う。当時は、造仏界において院派・円派が属する京都仏師の勢力が強く興福寺では金堂・講堂などを担当し、奈良仏師の慶派は、西金堂・北円堂・南円堂の造仏を担当している。そして慶派は、運慶を中心に一門の仏師たちとともに、その復興に尽力することになった。平家滅亡後の文治二年(1186)には、興福寺西金堂の本尊を北円堂の無著像と世親造を完成させている。そして、建久二年(1192)に源頼朝は、征夷大将軍に任じられ、建久六年(1196)三月に入京を果たし、三月十二日の東大寺の供養が行われ、参列した。
(写真:奈良興福寺 五重塔と西円堂)
慶派が最大の仏像造立の表舞台に立ったのが、東大寺大仏殿の大仏脇侍(脇侍)の四天王寺像と南大門金剛力士像であった。この時に運慶が弟弟子の仏師快慶や子息・湛慶などの一門を挙げて造立であった。後の鎌倉彫刻の代表作である。向かって左側に置かれているのが口を閉じた「阿形(あぎょう)像宇宙の始まりを表わしていると言われ、運慶、快慶の作と伝わる。右側は「吽形(うんぎょう)像」と自宅値は宇宙の完成を表わし、定覚、湛慶の作と伝わる両像共に高さおよそ8.4メートル、それぞれ約三千個の部材からなる檜の「寄せ木造り」の作である。制作期間は兼任三年(1203)の六十九日間で造立したとされている。
(写真:奈良 東大寺金剛力士像、興福寺 北円堂弥勒仏像
この慶派の仏像造作は一仏を一人で造作するのではなく、運慶が総指揮をとりながら高い技術力を有する慶派一門の仏師たちが組織的工房制作によって造立した。本来、慶派が行っていた仏像の修理・修復が、この技術を高めたと考える。そして大きな仏像を短期間で次々に造立することができた。建仁三年(1203)の東大寺僧供養に際し、運慶は僧綱位(そうごうい:僧官の僧位の総称)の最高位である法印に叙された。 ―続く