鎌倉散策 鎌倉の仏像二、仏師集団慶派 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 平安後期から鎌倉期にかけて仏師集団は院派、円派、慶派の三集団に分かれていた。院派は、平安中期、宇治の平等院の阿弥陀如来坐像で有名な作者、奈良仏師・定朝(じょうちょう)の孫院助(いんじょ:生誕不明―1109)を祖とする。七条大宮仏所に属する院助、院覚、院尊、院慶、院実、院範が従事し、及び六条万里小路(までのこうじ)仏所に属する院朝、院尚等の仏師たちが、名前に院の字を冠するので、後世に院派と呼称された。藤原時代後半には、造仏界を君臨するほどの勢力を持っていたが、円派、慶派の台頭により勢力は縮小されて行った。院派は、伝統的な平安期の仏像造作を続け、日本人好みの優美で穏やかな和様「仏の本様」ととらえられ、後世にも深く影響を及ぼしている。十四世紀に入ると真言律宗や禅宗との係わりにより、北条家の菩提寺の禅宗寺院を求め東国に進出した。後の南北朝期・室町期において、時の権勢を後ろ盾に再び発展を遂げる。特に室町期においては、三代将軍足利義満の京都五山の成定などにより、「唐様」という独特な形式美を持つ作風が用いられ、他派及び後世に少なからぬ影響を与えている。

 

(写真:京都宇治 平等院)

 円派は平安中期から鎌倉期にかけての仏師集団である。定朝の弟子長勢が三条仏所を形成し、京都仁和寺の旧北院本尊薬師如来像を弘和五年(1103)長円を率いて制作しているが、現存する作品は極めて少ない。長勢に次ぐ円勢以後、この系統の仏師の名に円の字を冠する長円,賢円,明円と続き、後世円派と呼称される。明円以降、奈良、鎌倉に主流が移るが慶派一門に押され次第に衰微した。

 

(写真:奈良東大寺)

 仏師集団慶派(けいは)は、平安末期から江戸期にかけての仏師集団の一派である。定朝の孫頼助に始まる傍系であり、定朝の子とされる覚助を祖としている。当時、平安末期では、院派・円派に比べ奈良・京都の仏像の修理復元作業を主に携わっていた。奈良を拠点に活動していたが、後に京都七条にあった仏所(仏師の工房)を形成し、後に仏師集団の主流をなす。慶派に比べ院派・円派の伝統的な仏像造作において、造銘が記されることが少なく、後に残る作品が少ない。京都を拠点とする院派と円派が貴族に支持された“定朝様”を保守的に受け継ぐのに対して、奈良の興福寺周辺を拠点にした、奈良仏師のひとりである康慶(こうけい)である。奈良仏師は新しい造形表現を模索し、一門を率いたのが康助(こうじょ)、康朝(こうちょう)と運慶の父、康慶だった。十二世紀半ばから十三世紀、貴族中心の社会から鎌倉幕府が開かれ、武士が政権を握る社会へと移り変わり、大きな時代の転換期に、康慶と実弟子・運慶による一門の慶派は、新たな仏像表現を生み出した。

 

(写真:ウィキペデアより引用金剛力士像)

 仏師集団慶派を世に知らしめたのは、鎌倉期の興福寺・東大寺の復興であった。治承四年(1180)十二月に平重衡による東大寺・興福寺の焼き討ちで堂塔伽藍と仏像が焼失しており、平家滅亡後に源頼朝は、建久二年(1192)に征夷大将軍に任じられ、その復興に寄進・助成をおこなっている。建久六年(1196)三月に入京を果たし、三月十二日の東大寺の供養が行われ、『吾妻鏡』では、「寅の一点に和田義盛と梶原景時とが数万の勇壮な武士を引き連れて寺の四面周辺を警護した」と記され、頼朝は東大寺再建供養会に参列し、新たな覇者の威光と威厳を誇示した。この東大寺の復興で、再び多くの堂塔伽藍や仏像が建・作成された。この時の仏像造立で仏師集団の運慶・快慶率いる慶派が大きく活動を飛躍させ、建仁三年(1203)東大寺南大門金剛力士像の造立を行う。金剛力士像はあまりにも頭部が大きいが、遠くから見ると躍動感が感じられ、近くから見る場合下から見上げるために頭が大きいと力感を感じさせるといった巧みな技法を用いた。そしてこの作品が、日本の鎌倉期の彫刻を創出する出発点となったと考えられる。

   

(写真:静岡・願成就院 阿弥陀如来坐像、不動産尊像、毘沙門天立像)

 慶派の運慶の東国での造像は、すでに文治二年(1186)におこなわれており、北条時政の発願で静岡・願成就院阿弥陀如来坐像、不動産尊像、毘沙門天立像の五体が造立されている(現在国宝)。時政は平治元年(1160)十二月九日から始まった平治の乱以降に、大判役として上洛しているが、この時期には、まだ慶派の大きな活躍は見られていない。時政は、文治元年に源頼朝の命で諸国に守護・地頭の設置と兵糧米の徴収を朝廷に認めさせる申し入れを行うため上洛した。そして、同月二十九日、後白河法皇より「文治勅許」を得ている。この時期に時政は慶派の康慶を知ったのではないかと考える。また、それに倣ったかのように文治五年(1189)には和田義盛発願で横須賀・浄楽寺に慶派の運慶が阿弥陀三蔵、不動明王像、毘沙門天増を造立した。

 それまでの平安期の仏像の穏やかさや気品を残しつつ、肉体部分に躍動感と力感が加わり、頭部の内側から水晶やガラスを嵌め込んだ玉眼を用いることにより現実感を増し、近づけば睨まれているような様相を示す。また流れるような衣紋など写実性に富んだ仏像の造作に至った。この造作は鎌倉武士に好まれ、これらの様式が認められることになった。 ―続く