鎌倉散策 鎌倉の仏像一 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 鎌倉は、文治元年十一月、後白河法皇より諸国に守護・地頭の設置と兵糧米の徴収を朝廷に認めさせる「文治勅許」を得て、源頼朝が鎌倉幕府を開き、一地方ではなく「武士の都」として政治・社会の中心を成していった。また、鎌倉では、多くの仏閣が建立され、仏像が造立らされ安置されていく。文治元年(1185)十月日十四日に鎌倉大御堂ヶ谷に父義朝の菩提を弔うため勝長寿院を建立、建久三年(1193)十一月二十五日、中尊寺の二階堂、大長寿院を模して建立された永福寺の本堂が完成し落慶供養が行われている。阿弥陀堂、薬師堂が建立されているため阿弥陀如来像・薬師如来像が安置された。清水真澄氏の『特別展 武家の都 鎌倉の仏像 迫真エキゾチシズム』総論 渚の青磁「鎌倉に仏像」に見る多様には、「勝長寿院は本尊阿弥陀如来像を奈良から来た慶派仏師の成朝が鎌倉の地で造立したことは、その後の鎌倉の彫刻を考えるうえで非常に大きい意味があったと言える」と述べられている。

  

(写真:鎌倉正長寿院跡と永福寺予想図)

 鎌倉期の初期においては、京都・奈良の平安期の特徴を持つ仏像が作られ、安置されている。しかし、現在鎌倉に残る平安期の仏像は、杉本寺の十一面観音像、辻薬師堂の薬師如来及び両脇侍蔵の中尊像。光明寺本尊木造阿弥陀如来像と脇侍の木造観音・施政菩薩像は鎌倉前期に京風仏像として造立されているが、残されたものは少ない。

 

(写真:辻薬師堂の薬師如来及び両脇侍蔵の中尊レプリカ)

治承四年(1180)十二月に平重衡による東大寺・興福寺の焼き討ちで堂塔伽藍と仏像が焼失した。平家滅亡後の頼朝は、建久二年(1192)に征夷大将軍に任じられ、その復興に寄進・助成をおこなっている。建久六年(1196)三月に入京を果たし、三月十二日の東大寺の供養が行われ、『吾妻鏡』では、「寅の一点に和田義盛と梶原景時とが数万の勇壮な武士を引き連れて寺の四面周辺を警護した」と記され、頼朝は東大寺再建供養会に参列し、新たな覇者の威光と威厳を誇示した。この東大寺の復興で、再び多くの堂塔伽藍や仏像が建・作成された。この時の仏像造立で仏師集団の運慶・快慶率いる慶派が大きく活動を飛躍させ、建仁三年(1203)東大寺南大門金剛力士像の造立を行い日本の鎌倉期の彫刻を創出する出発点となったと考えられる。

 

(写真:来迎寺の如意輪観音像と運慶晩年の作、横浜市光明院大威徳明王像)

 運慶の東国での造像が文治二年(1186)におこなわれており、北条時政の発願で静岡・願成就院阿弥陀如来坐像、不動産尊像、毘沙門天立像の五体が造立されている(現在国宝)。また、文治五年(1189)和田義盛発願の横須賀・浄楽寺阿弥陀三蔵、不動明王像、毘沙門天増を造立した。円応寺の閻魔王像。延命寺の地蔵菩薩別名身代わり地蔵は運慶作と伝えられている。教恩寺本尊阿弥陀如来像は鎌倉前期の作で運慶作と伝えられている。また、江戸期に建立された英勝寺は徳川家光寄進の阿弥陀三尊が運慶作と伝わる。

  

(写真:『特別展 武家の都 鎌倉の仏像 迫真エキゾチシズム』より引用、法衣垂下、法衣装飾に土門)

 鎌倉期において宋風彫刻は仏像独自の姿勢、遊戯半跏坐像、法衣垂下、法衣装飾に土門がもちいられ、鎌倉期にそれらを取り入れながら躍動的な造形を示し、水晶を用いた玉眼を用いることが一般化されていった。建久元年(1191)、栄西が南宋から帰国し、臨済禅を伝え、安貞元年、道元が宋から帰国曹洞禅を伝えた。五代執権北条時頼により中国僧の蘭渓道隆が開山者として本格禅宗寺院である建長寺が建立されると宋形式の仏像形式も用いられ、遊戯半跏坐像が挙げられる。円応寺の初江(しょこう)王像等がある。また、円覚寺本尊宝冠釈迦如来坐像の頭部は鎌倉期の作である。塔頭正続院の聖方眼堂の木造文殊菩薩騎獅子半跏像は法衣垂下を用いた鎌倉後期の作である。

 

   

(写真:鎌倉 浄光明寺木造阿弥陀如来三蔵と東慶寺水月観音遊戯半跏坐像)

浄光明寺木造阿弥陀如来三蔵は1299年頃の作(国重文)鎌倉仏像彫刻の秀作の一つで、本尊衣紋の土紋装飾、脇侍の姿勢や高く結い上がった宝髻(ほうけい)などに宋様式の強い影響がみられる。常楽寺には、本尊の阿弥陀三尊像が安置され、中尊の阿弥陀如来は「慈悲」を表わす。左脇侍の阿弥陀の「化仏」を表わす観音菩薩と右脇侍の「智慧」をあらわす勢至菩薩の両脇侍は高く結い上がった宝髻(ほうけい)などに宋様式がみられる。また、木造文殊菩薩坐像が秘仏とされ茅葺の文殊堂に安置され一月二十五日の文殊祭で開帳される。東慶寺の木造性観音菩薩立像は(国重文)尼寺太平寺(廃寺)の本尊であったとされ像に施された「土紋」は巧みである。来迎寺の如意輪観音像は土紋装飾を施した像で基は頼朝の持仏堂であった法華堂にあったものとされる。

  

(写真:鎌倉浄楽寺 阿弥陀三尊像 『特別展 武家の都 鎌倉の仏像 迫真エキゾチシズム』より引用)

 鎌倉期において、すべてが宋風、あるいは鎌倉仏が造立されたわけではなく、天台、真言、南都六宗などでは、従来の仏像形式も用いられた。覚園寺は鎌倉においての仏像彫刻の多彩さに富む。本尊の木造薬師如来座像(国重文)両脇侍の日光・月光両菩薩像造、十二神将(国重文)、愛染坐像、阿弥陀如来坐像、地蔵菩薩立像(国重文)である。蓮乗院本尊阿弥陀如来坐像は体内に造仏名「大仏師播磨法橋荘園』、作生年「西安元年(1299)十月一日」明記されさらに、阿弥陀経の一部が墨書されていることが判明した。極楽寺には、本尊木造清凉寺式釈迦如来立像、数少ない方転輪の印を結ぶ木造釈迦如来坐像、本尊脇侍に釈迦十大弟子の阿那律(あなりつ)像、羅睺羅(らごら)立像、平安末期の作で木造不動明王坐像が安置されている。虚空蔵堂には、奈良時代の行基が自身で彫り祀ったとされる虚空蔵菩薩があり、鎌倉期において頼朝の命により秘仏として三十五年に一度の開帳であったが、現在一・五・九月の十三日に開帳される。長谷寺の十一面観応は、伝承により奈良長谷寺の尊像と同じ一本の楠木の零墨より彫られたとされ、海に流され天平八年(736)に流着し長谷寺がこの日を開創と記す。宝善院は天平期の開山の泰澄が祀ったとされる十一面観音が祀られている。 

―続く