鎌倉散策 鎌倉新仏教十、曹洞宗と道元 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 曹洞宗は中国の禅宗五家の曹洞、臨済、潙仰(いぎょう)、雲門、法眼の一つである。中国禅宗の祖である達磨(五世紀後半―六世紀前半)から五代後の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(えのう:六三八―七一三)と北宗神秀の禅に分かれた。慧能の弟子・青原行思(せいげんぎょうし:生誕不明―七四〇)石頭希遷、薬山惟𠑊(いげん)、雲巌雲晟と四代下った同山良价(とうざんりょうかく:八〇七―八六九)によって創宗されている。

 

(写真:長崎 聖福寺山門)

 鎌倉新仏教の祖は、臨済宗の蘭渓道隆(中国宋の人)と時宗の一遍以外は京都比叡山延暦寺で教学に就いている。法然は二十七年、親鸞は二十年、日蓮は遊学であるが十年、道元は円城寺での一年を含め三年ほど天台教学を学び修めている。そして、道元は中国に渡り曹洞禅を日本に本格的に伝えた。禅宗としては栄西が二度目の中国に渡った際に臨済宗黄龍派の虚庵懐敞(きょあんえしょう)  の嗣法の印可を受け、「明菴」の号を受けている。帰国後、九州の福慧光寺や千光寺で布教を開始した。建久五年、禅寺感応寺(出水市)を建立、日本達磨宗の開祖大日方能忍の禅宗も盛んになり、延暦寺や興福寺から排斥を受け禅宗停止の宣下を受ける。建久六年には、博多に聖福寺を建立し、日本初の禅道場とされた。後に聖福寺は後鳥羽による扁額「扶桑最初禅窟」を賜っている。しかし、栄西は真言宗の印信を受ける等、また翌年には禅が既存宗派を否定するものでなく仏法進行に重要であるとする『興禅護国論』などを執筆し既存宗派との調和を図ったが、京都での布教活動に限界を感じ鎌倉に下向した。正治二年(1200)、北条政子が建立した寿福寺の住職に招聘され、頼朝一周忌の導師を勤めている。鎌倉幕府二代将軍源頼家の下後の下建仁二年(1202)に京都に建仁寺を建立するが当寺は全・天台・真言の三宗兼学の寺院であり、禅宗の振興に努めたが、立教には至っていない。宋からの帰国の際に茶の種を持ち帰り肥前霊仙寺で栽培を始め『喫茶養生記』を著作するなど茶を薬として広めた。そして日本で、貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣を広まるきっかけを作ったとされる。

 

(写真:長崎 聖福寺本堂 鉄心の鐘)

 曹洞宗の開祖である道元は正治二年(1200)、京都の久我家に生まれ幼名は信子丸で、両親については諸説あるが内大臣・源通親、母は通親の側室で太政大臣松殿基房の娘・藤原伊子とされる。他の諸説を見ても上級貴族又は公家の生まれであったとされる。伝記である『建撕記(けんせいき)』によれば三歳で父通親、八歳で母を失っている。母は道元の行く末に不安を覚え僧になる事を強く願ったとされる。その後、異母兄の堀川通具の養子になったとされるが、他には出家を志し拒否したとも伝わる。建暦三年(1213)、十四歳で比叡山のいる母方の叔父良顕を訪ね、建保二年(1214)、十五歳で天台座主公円に付いて出家し、仏法房道元と名乗る。翌年には園城寺(三井寺)で天台教学び修め、健保五年(1217)、建仁寺で栄西の弟子明全に師事した。

道元の父母が高家で、裕福であった事が二十六歳で南宋への渡航を実現させたと考えられ、貞応二年(1223)、明全とともに博多から南宋に渡り庶山を巡っている。明全は渡航二年後に現地にて病死し、帰国することはなかった。南宋の宝慶一年(1225)、天童如浄の「心身脱落」の語を聞き得悟し、中国曹洞禅の只管打座(しかんたざ)の禅を如浄から受け継ぎ『寶慶記』にはその際の問答記録が残されている。この時、師如浄が座禅中に居眠りをしている僧に向かい「参禅はすべからく心身脱落(しんしんだつらく)なるべし」と一喝するのを聞き道元は大悟したとされる。心身脱落とは、心身が一切の束縛から解き放たれて自在の境地になり、道元の得の機縁となった「心身脱落」の語は曹洞禅の極意をあらわす。

 

(写真:長崎 聖福寺 鬼塀)

 安貞元年(1227)、道元は四年ほどの宋での滞在を終え帰国した。帰国前夜、『碧巌録』を書写する際に城山妙理大権現が現れ、手助けしたという伝承がある(一夜碧巌)。また同年『普観座禅儀』を著している。帰国後、建仁寺でしばらく滞在し、天福元年(1233)、釈迦の教え「正伝の仏法」を伝えるため、京都深草に興聖寺を開き『正法眼象』の最初の巻『現成公案』を鎮西大宰府の俗弟子楊光秀のために執筆した。道元は、興聖寺を開いた時には、一般の民衆に説法を行い在家信徒も多く、布教に力を入れていたと考えられる。この時期に弟子に僧俗に示した法語「弁道話」では「仏法を得すること、男女貴賤を選ぶべからずときこゆ。…ただこれ、志のありなしによるべし、身の在家出家にかかはらじ」ときしている。鎌倉新仏教の特徴として誰もが平等に、仏法を得る民衆の仏教を示した。そして翌年、孤雲懐弉(こうんえじょう)が入門、続いて達磨衆からの入門が相次いだことより、比叡山からの弾圧を受けることになった。

 

 

 寛元二年(1244)に鎌倉幕府御家人で六波羅評定衆の波多野義重(相模国波多野荘を本拠)は以前から道元を知り、帰依していた。義重の助力で地頭であった領地の越前の志比荘に招き、傘松の土地を寄進し大佛寺を開いた。後の寛元五年(1246)永平寺と改め自身の号も希玄と改めている。この永平寺での布教は、京都深草の興聖寺とは違い、人里と離れ、冬には雪深く在家信徒がほとんど訪れることができなくなった。道元は、出家修行僧に対しての説法、出家至上主義に替わって行く。そこには、道元の曹洞宗の禅は、彼の師である如浄が曹洞宗の人であったからで、中国の曹洞禅をそのまま布教したのではなく、『正法眼象』等により自身の正法を示している。また、道元は曹洞宗、臨済宗の区別は無く禅宗という呼び方さえ嫌っていた。当時、道元の二歳年下で同じく宋に渡り臨済禅を学んだ円爾は、帰朝し、朝廷・貴族・民衆にもてはやされ・支持を得ていた。しかし円爾の提唱する禅は禅密兼修という純粋禅ではなく、密教の加持祈祷を取り入れたものであった。円爾は後に東福寺(はじめは普門寺)を開いている。道元の唱法するのは「正法の仏法・純一の仏法・全一の仏法」であり、釈迦から正しく伝えられた仏教・純粋なる仏教・全体としての仏教を守り、後世に伝えていくことを使命とし、出家僧の本格的養成が後世に伝えていく事には絶対不可欠であったと考えた事から出家至上主義に替わっていった。  ―続く