(写真;鎌倉 妙本寺総門と参道)
弘安四年の末に日蓮は朝廷への諫暁を決意し、朝廷に提出する申状を作成(「円城寺進上」)する。弟子の日興を京に使わせ後宇多天皇に献上した。その申状を円城寺の碩岳(せきがく:学問が広い、大学者)に諮問した結果、賛辞を受け、後宇多天皇は「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」とする下文を日興に与えたとする。この頃、身延の庵室も十間四面の坊舎が身延の地頭・波木井実長の一族が中心となり、また富木常忍ら他の門下の協力のもと建立された。
日蓮は健治三年(1277)の末に胃腸系の病を発し、医師でもある鎌倉の四条金吾の治療により一時的には回復を見るが、次第に病状は悪化していった。弘安四年(1281)五月には自身の死を自覚するに至り同年十二月には、執筆の活動も困難になった 。康安五年(1282)秋には、さらに病状が進み寒冷の見延の地で冬を越すことが困難とみられ、門弟たちが協議して、常陸国の温泉療養を行うことになった(「波木井殿御報」により常陸国の温泉と記される)。その温泉の場所は定かではなく、諸説あるが、波木井実長の次男実氏の領地の加倉井の由(茨木県水戸市加倉井町)とされる。
(写真;鎌倉 妙本寺山門)
九月八日に波木井実長に贈られた馬に乗り、実長と弟子、門下と共に身延べを出発した。十八日には富士北麓から箱根を経て武蔵国荏原郡(東京都大田区)にある池上兄弟の館に到着するが衰弱が進み、これ以上の旅を続けることを断念した。日蓮は翌日、日興に口述筆記させ波木井実長に謝意と自身の墓を身延に設けるよう要請した書簡を送っている。九月二十五日に日蓮が池上邸に滞在していることを知った主要門下である鎌倉の四条金吾、比企大学三郎熊本(比企員能の末子とされ鎌倉の妙本寺の開基)、富士の南条時光、下総の富木常忍、太田浄明などが集まり、日蓮は、それらの門下達を前に「立正安国論」を講義した。これが日蓮の最後の説法である。十月八日には日昭・日郎・日興・日頂・日向・日持の六名を本弟子(六老僧)と定め、後の妙法蓮華経(法華経)の日蓮門下を託した。
弘安の役の翌年の弘安五年(1282)十月十三日池上兄弟の館で多くの弟子・門下に見守られ、「攻撃的」「独善的」という印象を持たれがちな日蓮は六十一歳で入滅している。入滅前に日蓮は自身が所持していた釈迦像と注法華経を墓所の傍に置くことと本弟子六名が墓所の香華当番にあたるべきことを遺言とした。浄土教の念仏僧の一遍は、その時四十五歳であった。
(写真;鎌倉 妙本寺総門と祖師堂と日蓮上人像))
日蓮入滅後、日蓮法華教団は六老僧を中心に拡大してゆき、師弟関係により、日昭は、日昭門流(浜門流)の祖。日郎は日郎門流(池上門流)の祖。日興は日興門流(富士門流)の祖。日向は、日向門流(身延門流)の祖。六老僧以外の弟子では、日像は日像門流(四条門流)の祖。日静は日静門流(六条門流)の祖。日常は日条門流(中山門流)の祖で、他の多くの門流に分かれ、お互いの異なった秘伝・法問を継承しながら、門流の対立や分派も見られた。日興門流では日蓮の入滅に日興に対して付嘱(付属:師が弟子に仏法の奥義を伝授し後世に伝えを託す事)がなされたとして「日蓮一期弘法付属書」と「身延山付属書」があったと主張するが、他門流はそれを認めていない。
江戸期に入ると檀林(だんりん)という僧侶の養成機関として各地に創設され、師匠が出た檀林に弟子が入る為に学系が固定化されるようになった。修行階梯(かいてい:段階)により出世寺格が定まり、「持ち寺」「出世次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されてゆく。そして従来からの門流意識と新たな学系意識が加わり奉る士制度は極めて強固なものになっていった。檀林は明治五年(1872)、太政官政府により、学生の制定・公布に伴い廃止されていくことになる。そして、幾つかの変遷を経て現在に至っている。
(写真;鎌倉 妙本寺祖師堂と比企一族の墓))
鎌倉に住み、中世史を学ぶ上で、日蓮を避けては通ることはできない。どうしても他宗に比べると項数が増えてしまう。「攻撃的」「独善的」という印象を持たれがちな日蓮は、人によって様々な受け取り方がある人物と思われる。従来の仏教から民衆の在家信者に教えウィ広めたことは当時の宗教改革的な一端を担った。鎌倉期においての末法の時を示し、立教を志し、他の宗派の祖師として超越的な人間性を示さなければなかったのか、また日蓮が超越性を求めたのかもしれないと考える。日本では信教の自由が憲法により認められているので、人物の誹謗中傷は許される事ではない。現在の鎌倉の日蓮宗の大寺の妙本寺や本覚寺、滝口寺、長勝寺等は、拝観料を無料にされている。その理由として、釈迦の教えを伝える大乗仏教の代表的経典である「法華経」は、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれているからと考える。その寺院の空間でコロナ禍の現在、殺伐とした光景が目立ってきた中で、人の心を癒し、優しさを与えてくれる、それが現代の宗教であり、そんな寺院が人々を引き付けるのだろう。 ―続、
(写真;鎌倉 妙本寺に咲く海棠)