(写真:鎌倉 本覚寺 鎌倉夷)
鎌倉幕府は、文永十一年(1274)二月に日蓮の佐渡流罪を赦免し、二年三か月の佐渡流罪に幕を閉じた。同年三月二十六日に鎌倉に戻った日蓮は、平頼綱の面会を受ける。三年前と打って変わった丁重な態度で蒙古襲来の時期を尋ねられた。日蓮は「今年中には必ず来襲するだろう。やむをえないことだ。それにしても他宗の僧侶に異国調伏の祈祷を依頼してはならない。彼らに祈祷させたならば日本は滅んでしまうだろう」と答えたとされる。『立正安国論』の進献は、一度目が文応元年七月十六日(1260)に五代執権北条時頼に進献した。二度目は文永五年(1268)八月、十月に八代執権北条時宗に進献し、これが三度目であったが、これも受け入れられなかった。頼綱は寺院を寄進することを条件に日蓮に蒙古調伏の祈祷を依頼するが、日蓮は諸宗への帰依を止めることが必要であるとし、その要請を拒絶した。これ以上幕府への働きかけは無意味と考え、同年五月十七日に日蓮は鎌倉を去った。日興の勧めに従い、日興の折伏で日蓮門下に入った南部実長(波木井実長)が地頭を勤める甲斐の身延山に入った。日蓮はさっそく自身の法華経観をまとめ、三大秘宝の名目を上げた『法華取要抄』を完成させている。日蓮は幕府にとっては文永の役等も重なり、要注意人物として警戒されていたため身延入山後は門下の者以外との接触を拒絶し、入滅の年に常陸の湯に向かうまで身延を出ることはなかった。
(写真:鎌倉 本覚寺 鎌倉夷)
文永十一年(1274)十月五日より蒙古・高麗軍の襲来は対馬から始まった。『日蓮書状』〈日蓮遺文〉で、この時の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或いは殺され、或いは擒(と)らわれ、或いは海に入り、或いは崖より堕(お)ちし者幾千人ということなり」と記している。全く戦闘方式が違う蒙古・高麗軍三万五千に対し、苦戦を強いられ、惨敗状態であったが、一夜の大風により蒙古・高麗軍は被害が出て撤退した。本格的軍事侵攻ではなく、威嚇と偵察的な襲撃であった事も考えられる。
文永の役の翌年健治元年(1275)に日蓮は、蒙古襲来の意味を思索し、結論を記した『撰時抄』を完成させた。そこには、蒙古襲来は日本国が法華経の行者を迫害するゆえに諸天善信が日本国を罰した結果であるとし、法華経に従わない鎌倉中の寺や鎌倉大仏を焼き払い、禅僧・念仏僧を由比ヶ浜でことごとく処刑せよと述べ、一層の攻撃的な意思を述べている。また健治二年(1276)六月に師匠とした善導房の死去の知らせを受け翌月『報恩抄』を完成させたその内容は「報恩の倫理」、「真言密教の破折を軸に正像末の仏教史を概観する」、「三大秘宝の法理を示す」の三点に要約される。龍の口の法難以降および、蒙古襲来により日蓮の念仏批判は、導尿に真言及び真言密教への批判が激しさを増していった。日蓮流罪後鎌倉に戻った際、流罪中に多くの日蓮信徒や多額の寄付等を与えた信徒が真言律宗に帰依したことも原因とされる。松尾浩二著『忍性』では、日蓮が建長八年に鎌倉で立教した際、北条氏庶流とされる名越に住む「なごえの尼」と呼ばれる女性信徒がいた。初期の日蓮信者の中でも影響力を持っていたらしく日蓮が佐渡流罪中に多くの信徒を引き連れ改宗したことを日蓮遺文の一つ五月十五日付けの「上の殿御返事」に罵るように記している。「(前略)日蓮が弟子にせう(小輔)房と申し、のと(能登)房といゐ、なごえの尼なんどもうせし物どもは、よく(欲)ふかく、こころをくびょう(臆病)に愚痴にして而も智者となのりしやつばら(奴原)なりしかば、事のをこり(起)し時、便りを得ておほく(多く)の人を落とせしなり(康暦)」。また、真言律宗の『西大寺田園目録』にて添下郡泉庄内の土地の購入において、弘安十年(1287)三月に諸方から寄付五百貫文で買い取っている。その寄付目録に北条時村と並び「名越殿ノ禅尼」が同じく百貫文(現在の金額として四百五十万円程)の寄付をしている。同時代の「なごえの尼」「名越殿ノ禅尼」は、同一人物の可能性が高い。身延に移った事は、鎌倉で,こういった事が一つの要因ではないかと考える。
(写真:鎌倉名越切通 逗子市まんだら堂やぐら郡)
日蓮の身延山入山後、弟子の日興を中心に周辺の布教活動が行われた。日興の供僧していた四十九院や、岩本実相寺、龍泉寺等が天台宗寺院で住僧や近隣農民などが日蓮門下へと改宗していった。周辺の天台宗寺院は日蓮門下となれば住僧らを追放する対策を取り、日蓮門下と天台宗側は抗争が生じる。天台宗側は当時最大の権力者の北条得宗家内管領・平頼綱と結びつきが強く幕府権力により日蓮門下に圧力をかけ、弘安二年九月二十一日、天台宗寺院の熱原龍泉寺の院主代・行智の訴状により稲刈り作業に農民が多く集まったていた時に武装した騎馬兵が二十名の農民信徒をとらえて鎌倉に連行した。鎌倉で平頼綱の取り調べが行われ、二十名の信徒に対し激しい取り調べと改宗を即している。日蓮は、この事件に対し日蓮門下にとっての大事件ととらえ、鎌倉での中心的信徒である四条金吾に拘束された農民信徒を励ますように書簡を送っている。また、龍泉寺の院主代・行智の訴状に対し陳情(答弁書)の文案を作成し法廷闘争に備えた。そして龍泉寺の住僧だった門下を下総の富木常忍の館に避難させ、事態の収拾に努めたが、二十人の農民信徒は誰一人として改宗をしなかったため頼綱は尋問を打ち切り、三名を斬首、余を禁獄処分とした。これを熱原法難と呼ばれている。
弘安二年に蒙古(元)は三月に南宋を滅びし、高麗の合浦(がっぽ)から出発する元・高麗軍の東路軍四万、旧宋の江南の慶元(現寧波:にんぽう)から出発する旧南宋軍の江南軍十万の兵を動員して日本を再び襲撃を試みる。弘安四年五月二十一日、に対馬の侵寇により住民が殺害され、弘安の役が始まる。六月六日に出発が遅れた江南軍を待つことなく東路軍は博多湾に入るが、志賀島に船をつけ、志賀島での激戦が続いた。文永の役では敗戦に近い状態であったが、蒙古の戦法も知り、今回は石築地の防御施設も構築していた。戦闘は五分五分と言ったところであるが、江南郡衙到着すれば、敗退の影すら見えていた。しかし、東路軍は兵站も少なくなり、急遽生木で作られた船は腐りだし、船内で疫病も出たとされる。七月初旬に疲弊した東路軍に江南軍の先遣隊が現れ、平戸方面に移り、江南軍と合流した。そして伊万里湾の開口部は東路軍と江南軍の船により埋め尽くされたという。
大宰府を目指し上陸するはずであったが七月三十日から激しい風雨が始まり、翌閏七月一日にかけて暴風となった。激波にもまれる船は互いに激突し、無数の船体を砕かれ黒い波間に消えていった。『勘仲記(かんちゅうき)』弘安四年閏七月一日条にも、この晩京都でも夜通し雨と大風が吹き荒れたという。日蓮の他国侵略の予言は再び確信を得たが、幕府、朝廷は真言僧の蒙古調伏の祈祷で国難を回避し、『富木入道殿御返事』では、日蓮が、この予想外の弘安の役の終結に困惑した様子が伺える。日蓮は門下に対し蒙古襲来について語ることを厳しく戒めている。台風により蒙古の襲来を阻止できたことで、一時的な僥倖(ぎょうこう)に傾く世間に対し、蒙古襲来の危機は継続することを認識していた。幕府は実際、蒙古との苦い戦闘を経て、この弘安の役では御家人以外の荘園の武士や悪党まで動員した。この事で恩賞及び、その後の襲来を恐れ、対蒙古への防御対策費用の拡大が鎌倉幕府の滅亡の要因の一つになったと考えられる。 -続く
(写真:鎌倉 鶴岡八幡宮)