鎌倉散策 鎌倉新仏教七、日蓮の佐渡流罪と赦免 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 「種種御振舞御書」に日蓮の佐渡への護送団は、文永八年十月十日に依智を出発し、十月二十八日に到着したと記されている。日蓮には、日興及び数名の弟子が随行し、配所として当てがわれた塚原三昧堂には十一月一日に到着した。塚原三昧堂は、墓のある野原に建てられた粗末な小堂で、冬は吹雪が吹き込み、与えられた食料も乏しく、劣悪な環境であった。日蓮は配所に到着すると『開目抄』の執筆に着手し、翌年二月に完成させた。『開目抄』は法難に会い佐渡流罪になったことで、妙法蓮華経(法華経)の門下が、何故諸天の加護が無く迫害を受けるのかと言う疑念を持ち退転する者が続出し、その疑念に対する回答であった。

 

(写真:鎌倉 本覚寺)

 『日蓮宗 いのちに合唱 開目抄』で『開目抄』を引用させていただくと、【冒頭部「あらゆる生きとし生けるものが自分の主人として・専制として・親として尊敬すべき人物は誰か、その教えとは何かを探る問いから始まります。そして、講師の儒教・インド哲学・釈迦の仏教を中心に、当時の通年念では全世界に渡っての、あらゆる思想・宗教の比較が試みられています。その結果・過去・現在・未来を広く見通し、その生死の苦しみを超克する「悟り」つまり「成仏」を説いた、釈迦の仏教が一番である、そしてその仏教の中でも、成仏が万人に可能なものであり、仏の世界が永遠不滅たることを説いた『法華経』が特に優れている」と結論づけます。その『法華教』を広めたことで、私日蓮は幾多の方難に在ってきたとして今度の日蓮上人自身が回顧・内省へと話題が移ります。

 

(写真:鎌倉 常楽寺)

 この度の方難について「『法華経』の観持品(かんじほん)第十三に釈迦の没後に恐怖の悪世(くふのあくせ)が到来するが、その中で苦難に堪えながら『法華経』を広める者が現れる、と予言されている点を指摘します。私の苦難の連続は、この予言の実現だったのだ。私日蓮は『法華経』の記述を実現する『法華経』の行者」であるとの自負が、ここに示されました。しかし、ここでは新たな疑問が生じます。確かに『法華経』には「この教を広める人は必ず苦難に遭う」と説かれているが同時にその人は天に守られるとも随所に解かれています。では、「なぜ私日蓮は天に守られず苦難を受けるばかりなのか。この釈迦の要請に応える「『法華経』の行者」こそ私日蓮そのひとなのか、しかし、「『法華経』の行者」は天に守られるはずだが、私は守られぬまま、苦難を受けている」。そこで改めて、先に示された問いに、いよいよ応えることになります。

 

(写真:鎌倉 常楽寺)

 その応えとは、「私が点に守られず苦難を受けているのは、あえて苦難を受ける事で過去に犯した罪の償とするため」という理論でした。「例えば鉄は、よく鍛えるほど隠れていた傷が露(あらわ)わになる。麻の身は良く絞るほど油がとれる。それと同じで、『法華経』をよく布教するほど過去の罪が明らかになり、その償いとして、あえて苦難を受けてきたのだ』と聖人は述べています。こうして『開目抄』には痛切な懺悔の思いがつづられることになります。とかく「攻撃的」「独善的」というイメージを持たれがちな日蓮上人ですが、その思想の中心が実はこうした自制の上に立てられていることは忘れてはならないでしょう。その懺悔の中で聖人は『法華経』常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつぽん)第二十に説かれる不軽菩薩の故事を引いています。この不軽菩薩は出会う人全員を礼拝し。「私は深くあなたを敬います、あなたもいつか仏に成られる方ですから」と告げて回ったという、『法華経』の心ともいうべき万人成仏の教えの実践でした。しかし彼の行動は当時の人々から奇異の目で見られ、度重なる迫害を受けたと言います。聖人はこの不軽菩薩も自分と同じ境遇だったのかもしれないと推測しつつ、そこに自分の姿を重ねています…以上のような内省と懺悔を経て、成人は釈迦に向き合い、「わが日本の柱とならむ、わが日本の眼目とならむ、わが日本の大船とならむ」とちかいのもと『法華経』を広めていこうと決意を新たにします。こうして本書は、軋轢を恐れない施政で布教〈折伏(しゃくぶく)〉を続けることを宣言し、明るい未来への展望を暗示して幕を閉じています】。

 

(写真:鎌倉 円覚寺 仏日庵 北条時宗像

 同月鎌倉と京都で、謀反の疑いにより八代執権北条時宗が北条一門の名越時章、教時兄弟と六波羅探題の異母兄北条時輔を同調者として殺害されるという二月騒動が起こっている。日蓮の予言した内乱が現実のものとなり、文永五年に蒙古からの国書が届いて以来、外敵侵略の確信が強まり日蓮の帰依者が次第に増えていった。文永九年(1272)の初夏、日蓮の配所は佐渡守護代本間重連が佐渡を離れることになり塚原三昧堂の西に位置する一の谷(いちのさわ)に移される。佐渡においても日蓮が念仏者に襲われる状況は続いていたとされ、一の谷に移ることで安全性と居住環境が少しは改善した。鎌倉において門下の中で日蓮の斜面を幕府に嘆願する動きが出たが、「真言諸宗違目」において、日蓮は赦免運動を厳しく禁じている。「真言諸宗違目」は富木常忍に与えた御書で、真言・華厳・法相・三論・禅・浄土等の諸宗の起こりと、その教義の誤りを示され、これらの諸宗の誤りを明らかにする導師は、ただ日蓮一人であることを述べている。また、「大聖人様が龍の口の大難を脱れることができたことをもって証明されるように、必ず諸天の加護があるので、けっして疑ってはならない」と、門下に対する戒めの言葉をもって本抄を結んでいる。なお、追伸には、「この書を人々に広く知らせ、けっして恨みを残してはならないと仰せられ、さらに佐渡配流赦免を赦されないことは諸天の計らいであろうかから、赦免を嘆願するようなことはしてはならない」と記した。文永十年四月、日蓮は自身が図顕した文字曼荼羅本尊の意義を明かした『観心本尊抄』『顕仏未来記』を著している。しかし、佐渡流罪により、『開目抄』には痛切な内省と懺悔の思いが綴られているが、他宗、特に念仏はそうであるが、真言密教・真言律宗への批判が極度に強まった。それは極楽寺の忍性の布教活動の成功あったためと考える。 ―続く

  

(写真:鎌倉 本覚寺人形供養)