文応元年七月十六日(1260)、日蓮が『立正安国論』を宿屋光則の屋敷を訪ね、寺社奉行であった子の宿屋行時光則を通じて北条時頼に進献した。当時の鎌倉は疫病、大地震、豪雨洪水の災害に見舞われ、前年の鎌倉での惨状を訴え、災害の起こる原因は法然の教えが流行し、為政者を含め人々が正法の真実の教えである法華経に違背して、念仏宗などの悪法・邪法に帰依しているところにあるからだと訴え、その故に国土を守る諸天善神が国を去って、その代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生じる(これを「神天上の法門」という)。日蓮は災難を止めるためには為政者が悪法の帰依を停止し、正法の帰依することを主張する。法華経に帰依しなければ他国侵逼(しんひつ:外敵の侵略)自界叛逆難(内乱)が起こることを『立正安国論』で予言し、警告している。しかし、この進献は黙殺された。『立正安国論』も念仏批判をくり返し、『念仏者追放宣旨事』等でも徹底した念仏批判を展開した。
(写真:鎌倉 長勝寺)
「浄土真宗と親鸞」で「鎌倉において八幡太郎義家の嫡流は八幡神社思想が「三つ子の魂」で「法華経」には馴染まなかったという説もあるくらい天台宗寺院(「法華経」を)は少ない。」と記したが、執権時頼は、当時最新の仏教、中国の禅宗において政治的安寧を図ろうとし、本格禅宗寺院である建長寺も建立していたため、新宗派には、興味を示さなかったと考えられる。また、日蓮の唱える『立正安国論』の他宗への攻撃的な主張に傾倒することは、政治的に不安定感を与える要素があったと考える。日蓮は、貴族層から民衆層に広がりを見せていた念仏宗の者により激しい反発を生み、松葉ヶ谷の草庵を襲撃する事件が起こった(松葉ヶ谷の法難)。この法難の背景には北条重時と子の六代執権長時の意思があったとされる、日蓮は、その襲撃を免れたが、危険な状態であったため鎌倉を出て下総国若宮(現千葉県千葉市川市)の富木常任の館に移り、下総国での布教活動を行う。
翌年弘長元年(1263)、一月に鎌倉に戻った日蓮は、悪口の罪で訴えられ、幕府に拘束され、伊豆へ流罪となった。日蓮の伊豆での監視に当たったのが伊豆の地頭・伊藤祐光であったが、病を患い日蓮の祈祷により平癒したことで念仏者から日蓮に帰依したとされる。また、駿河国富士郡岩本にある天台宗寺院・実相寺に滞在していた時に門下になった日興(後の日蓮高弟六老僧の一人)が伊豆に赴き供奉したとされる。弘長三年(1263)二月二十二日、日蓮は、伊豆流罪を赦免された。その赦免には「聖人後難治」に「故最明寺殿の日蓮をゆるしし」とあり、
文永元年(1264)の秋、母の病が重篤と聞き故郷の安房国東上郷片海に戻るが、東条松原大路で安房国地頭東条景信の襲撃を受け、日蓮は頭に受傷し左手骨折という重傷を負った。弟子たちも数人亡くなったとされ、急を聞き駆け付けた在家信徒工藤義高も傷を負い、それが基で亡くなっている(小松原の法難)。文永四年(1267)まで、当地で布教活動を行い、母の死を見届け、同年中に鎌倉に戻ったとされ、同年八月に真言律宗の忍性が鎌倉極楽寺に入っている。
(写真:鎌倉 長昌寺 二月十日の國祷会)
文永五年(1268)一月十六日に蒙古の国書が太宰府に届き鎌倉に送られ朝廷に回送した。蒙古の国書の内容は、日本との通商関係の締結を求めながら軍事的進行も辞さない威嚇の意を含めたものであった。日蓮は、蒙古国書の到来を外国侵略の予言した『立正安国論』の正当性を証明する事実と受け止め、八代執権北条時宗に八月、十月に宿屋入道(光則)を通して書状を進献している。そして、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱幕府要人のほか極楽寺良観(忍性)、建長寺道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に対し、諸宗との公場での対決を要求する書簡(十一通御書)を発した。その書簡において念仏無限・禅天魔・真言亡国・立国賊という「四箇の格言」を綴っている。幕府は日蓮の主張を無視し、日蓮教団を幕府に従わない危険集団とみなし教団に対する弾圧を検討するに至った(「種種御振舞御書」)。日蓮は鎌倉内での幕府、各宗派から完全に敵対され孤立することになった。真言律宗の忍性が文永四年(1267)八月に鎌倉極楽寺に入り、念仏者ともに共存路線を歩む。幕府に替わり社会福祉活動として極楽寺に四箇院の設置し、病者の療養、非人の保護等を行った。社会福祉活動には、費用が掛かるため幕府は和賀江島の港湾施設の利権、道路・橋等の管理利権を与え、非人の労働力を組織化し、修理修繕や関銭を得る事により維持し、非人の組織化により治安の安定も計られていた。
(写真:鎌倉 霊光寺「日蓮大菩薩祈雨之旧跡地碑」と日蓮上人像)
日蓮は、旱魃に際し、幕府が極楽寺の忍性に祈雨祈願を要請したことを知り、「七日の間に雨が降らなければ日蓮が良寛の弟子となるが、降らなければ良寛(忍性)が南無妙法蓮華経(法華経)に帰依せよと降雨祈願の勝負を申し出たが良寛(忍性)は、降雨祈願は行うが、日蓮の申し出には応じなかった。文永八年(1271)に日蓮が他宗を激しく誹り、松葉ヶ谷草庵に凶徒を集め武器を貯えているとの訴えがあったとして、侍所所司の平頼経は、数百人も兵を用い捕縛し、兵士による日蓮への暴行があった。日蓮は平の頼綱に対し日蓮を迫害するならば内乱と他国の侵略は不可避と主張し諫暁した。頼綱は裸馬に日蓮を乗せ鎌倉市中を引き回し、大町に住む淺敷の嫗(おうな)が日蓮の前に進み、ゴマの餅を捧げたという。その後に門弟の日昭が、その地に常栄寺を創建し「ぼたもち寺」として今も伝わる。日蓮は佐渡国守護・北条宣時に「預かり」とされたが、頼綱は日蓮を斬首するため同日夜半に龍の口の刑場に連行した。斬首が執行されようとした時に江の島の方角から強烈な閃光が差され、太刀をふるう武士の目を眩ませた。その場にいた諸士は驚き、日蓮は斬首を免れ、佐渡流罪が下された。配流途中での死罪計画もあったとされ、それが瀧口の法難である。
(写真:鎌倉 腰越から見た江ノ島 稲村ケ崎からの江の島)
龍の口の法難で日蓮は、『開目抄』で「日蓮と言い下野去年九月十二日子丑(子丑)の時に頸はねられぬ」と述べて、自身のそれまでの布教活動に区切りをつけそれまでの日蓮はひとまず終わっっと述べている。『三沢抄』では自身が佐渡流罪以前に述べてきた教えは釈迦の爾前経のようなものと説き、佐渡出発の前日、文字曼荼羅本尊(「楊枝本尊」と称される)を図顕し、新たなる弘教を開始を模索した。しかしこの方難で迫害を受けたのは日蓮一人ではなく鎌倉の門下二百六十余人が取り調べられ、逮捕・監禁・追放・所領没収等の処分を受け鎌倉の日蓮教団は、壊滅的打撃を受ける事となった。日蓮が佐渡に流罪が決まった際、「日蓮の行くところ常に日郎有り」と言われた高弟の日郎、日真、四条頼基(収玄寺)を宿屋光則が身柄を預かった。光則の屋敷の裏山に日郎を幽閉した土牢がある。日蓮は佐渡に流罪される際、自らの不運を嘆くことなく弟子の身を案じて日蓮が日郎に送ったと言われる手紙「土籠御書(つちのろうごしょ)」がある。その、宿屋光則はその日蓮に心打たれ、帰依し、自邸を開山者日郎として文永十一年(1274)に光則寺を創建した。光則寺の山号寺号はこの宿屋行時、光則親子の名をとって行時山光則寺とされた。宿屋光則は五代執権北条時頼の家臣で父宿屋行時と同じく仕えており、北条時頼の臨終の際、最後の看病を許されたのが得宗被官七人の中の一人であった。 ―続く
(写真:鎌倉 龍口寺)