(写真:鎌倉 妙本寺)
鎌倉新仏教の中でも日蓮宗の開祖である日蓮は、鎌倉の地に関わりが深い。日道『富士修学要集』巻五に日蓮は、承久四年(1222)安房国長狭郡東条豪片海(現千葉県鴨川市)の漁村で生まれたとされ、父は貫名重忠、母は梅菊とする伝承がある。『善無畏三蔵抄』では「日蓮は安房国・東条・片海の石中の賤民(せんみん)が子なり」、『佐渡御勘気抄』では「海辺の旃陀羅(せんだら:中世から仏教経典の用語を概念化し僧侶知識層に広まった被差別民への呼称)が子なり」、『本尊問答抄』には「東条郷の・片海の海人が子なり」と記され漁業を生業とする家の出身と考えられる。日蓮の家は荘園の領主の夫人から保護を受け、日蓮自身が東条郷にある清澄寺で教育を受けているため、父は漁民をまとめる荘官級の立場にあったとされる(高木豊『増補改訂 日蓮―その行動と思想』)。
『本尊問答抄』に日蓮は十二歳で、当時天台宗寺院であった清澄寺で教育を受けるために登り導善房が師匠を勤めた。そして日蓮は、清澄寺の本尊である虚空菩薩に「日本第一の智者となし給え」と願をかけたという。日蓮は、誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈祷を用いた朝廷方が鎌倉幕府軍に敗れた事や、仏教内部になぜ多くの宗派が分立・争論するのか疑問を持ち、既存宗の教義には盲従せず経典を基準とした主体的思索を続けたとされる。十六歳で導善房を師匠として得度・出家し、是聖房蓮長と名乗った(日蓮十七の時に書写した「授決円多羅義集唐決上」に是聖房の直筆署名が残されている)。
(写真:鎌倉 妙本寺)
得度した日蓮は虚空菩薩に祈り、主体的思索を重ね各宗派や一切経の勝劣を知るという重要な宗教体験を得た。この宗教体験を経典に照らし確認するため比叡山延暦寺・円城寺・高野山などに遊学する。遊学は延暦寺を主に比叡山横川の寂光院に滞在したと伝えられている。「十住毘婆沙論尋出御書」、日興「原殿御返事」に比叡山での研鑽の結果、日蓮は「阿闍梨」の称号を受けたとされるが、日蓮の延暦寺での勉学期間は十年ほどであるが、阿闍梨は修行僧たちの規律を指導し教義を伝授する高僧を指し、天台宗と真言宗において歴史上では天皇に関わる儀式において修法を行う僧に与えられる職種である。延暦寺で得度・勧進を受けた僧以外の遊学僧にとって与えられる職種ではないと考えられ、延暦寺において俊範に師事したとされるが、実際どの様な関係であったかは不明である。また南都・高野山でも学んでおり、多忙な職種である「阿闍梨」の称号に対し疑問を持つ。
比叡山での日蓮は妙法蓮華教(法華経)を中心に文献的な学問と天台本覚思想を学んだとされる。日蓮が書写した文献には「授決円多羅義集唐決上(1238:直筆金沢便故所蔵)」「五輪九字明密教釈(1251:直筆中山法華寺所蔵)」著書として「戒体即身成仏義」等数編あるが、いずれも直筆でなく、偽書の疑いがある。日蓮は、一切経の中で妙法蓮華経(法華経)が最勝の経典として天台宗を除く諸宗が法華経の否認する謗法(正法誹謗)を犯していることを確認し、三十二歳で妙法蓮華経の弘通を開始した。
(写真:鎌倉 妙本寺 祖師堂)
日蓮が三十二歳の建長四年(1252)、あるいは翌年の建長五年四月二十八日までには清澄寺に戻り、師匠の善房導、僧侶たちに「禅宗・浄土宗なんどと申すは、また言うばかりなり僻見の者なり。これを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存じしかども、虚空菩薩の御恩を奉禅が為に建長五年四月二十八日、…」と念仏無限(念仏者は無間地獄に落ちるという)と禅天魔(禅は、不立文字以心伝心の身を説いている)法華経を軽視していると、妙法蓮華経(法華経)の題目を唱える唱題行を唱えた。天台宗では、修業の中で妙法蓮華経を称えられており、南無阿弥陀仏の称名念仏などと並行して行われていたが、日蓮は念仏を否定し、妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した。この事により東条郷の地頭であった・東条景信が日蓮の言動について激しく反発し善導房は危害を恐れ、兄弟子の浄顕房・義浄房に連れられ日蓮は清澄寺を後にした。日蓮は、立教にあたり「是聖房」の名を改め「日蓮」と名乗っている。この年の八月に曹洞宗の開祖道元が五十四歳で入滅している。
(写真:鎌倉大町 安国論時)
その後、日蓮は鎌倉に建長五年に入ったとされるが、六年また八年の説があり、定かではないが、名越の松葉ヶ谷に小さな庵室を結んだ。建長五年、日蓮三十三歳の時の自筆による『不動愛染官憲記』が残されている。「正月一日、日食の時に生身の愛染明王を、同十五日にから十七日まで生身の不動明王を拝見した」と記し、その像を描き、「大日如来より日蓮まで二十三代嫡々相承、日蓮授新仏」と記されている。この体験が日蓮にとり重要であったことが、後年の曼荼羅本尊にも左右に不動と愛染明王の凡字が記されており、法然が夢にて善導と会い、明恵が文殊菩薩から持戒清浄院明を受けたことに対比できると考える。この年の十一月、後の六老僧の一人日照が日蓮の草庵を訪根門下になったとされる。また、建長五年には、五代執権北条時頼を開基とした鎌倉五山の第一位になる建長寺が創建された。鎌倉では本格的に中国宋の禅宗の展開がみられる中、各仏教宗派による布教活動が全盛期を迎えることになる。
(写真:鎌倉小町大路 日蓮辻説法跡)
日蓮は、松葉ヶ谷の草庵を拠点に小町大路で日々辻説法を行っている。この場所は北が幕府や有力御家人の屋敷が立ち並ぶ政治の中枢に近い場所であり、南は、建長三年(1252)に幕府が認めた商業地区六ヵ所の米町に近い場所であり、布教場所としては絶好の場所であった。直接民衆に語りかけ、法華経こそが唯一の真実の教法であるとし、他宗を激しく批判した。このため人々の反感も多く、時には石や瓦が投げつけられることもあったという。しかし、それに屈しる事無く布教活動を続け、その教えに帰服する者も増えていった。僧侶としては日昭・日郎・三位房・大進阿闍梨、在家信徒として富木常忍・四条頼基(金吾)・池上宗仲・工藤吉隆らが門下に入ったと伝えられている。
(写真:鎌倉長谷 収玄寺 四条金吾邸跡)
四条金吾頼基は中務三郎左衛門頼基といい、承久三年(1221)の承久の乱後、父四条頼員の代から北条氏一族の名越朝時(鎌倉幕府二代執権北条義時の次男で名越氏の祖)・光時の父子の重臣であった。名越氏が信濃国伊賀良荘の地頭となり代官として赴任している。四条金吾は建長五年(1253)から日蓮の説法に深く帰依し、日蓮宗立宗からの門徒であった。鎌倉武士であった四条金吾は文永八年(1271)九月十二日、日蓮捕縛の報を受け、自らも切腹覚悟で瀧ノ口の刑場(瀧ノ口の法難)に向かったと言い人物である。また、四条金吾は医術にも優れ、鎌倉だけでなく佐渡、見延へと日蓮聖人に従った。佐渡に流された日蓮から『開目抄』が鎌倉の頼基に送られ、門下に広く示す中心的な存在であり、晩年は甲斐国内船(山梨県南部町)の地を与えられ、その地に内船寺を建立、身延山内には端場坊を建立した。四条金吾の墓は内船寺にある。
(写真:鎌倉長谷 収玄寺 四条金吾邸跡)
正嘉元年(1257)八月に鎌倉大地震が起こり、家屋も倒壊し大きな被害をもたらした。そして、その後、正嘉の大飢餓が起こり、疫病も流行し、諸国で多数の死者を出している。『立正安国論奥書』に日蓮は多くの死者を出した災害を仏法に照らし究明し、災難を止める方途を探ろうとした。そして日精の『家中抄』に駿河国富士郡岩本にある天台宗寺院・実相寺に上り同時に所蔵されている一切経閲覧している。この時の仏教の体綱を再確認した成果として、『一代聖教大意』『一念三千理事』『十如是事』『一念三千法門』『唱法華題目抄』『守護国家論』『災難退治抄』等の日蓮の著作にまとめられている。そして『立正安国論』が著作された。 ―続く