曹洞禅の宝治二から三年(1248-49)に五代執権北条時頼、波多野義重の招請により鎌倉に下向する。半年間ほど鎌倉に滞在し、関東における純粋禅興隆の先駆けとなった。しかし、時頼の寺院建立の要請があったが、それを断り越前の永平寺に帰っている。その時頼の要請の意味は不明であり、道元が断った理由も定かではない。しかし、もしも道元が引き受けていたならば、北鎌倉も様相が変わっていたかもしれない。しかし、永平寺に戻ったことが道元の正法を後世に伝える使命感を現す一方、権勢に迎合せず、欲俗にとらわれない道元らしいと言わざるを得ない。
(写真:北鎌倉 建長寺)
五代執権北条時頼は建長五年(1253)、宋から来日していた蘭渓道隆を招聘し、北鎌倉の建長寺が創建された。この同年、道元は病により永平寺住職を弟子の孤雲懐奘に譲り、俗弟子の覚念の屋敷(京都高辻西洞禅院)で入滅する。享年五十四歳。死院は瘍(悪性腫瘍)とされる。道元は世俗を嫌い、権力者に媚びず、地位・名声を避け、すべて終生一等只管打坐により「正法の仏法」に専念した。
「只管打坐」は道元の師で中国曹洞宗の如浄の禅が「只管打坐」であり、それの思想を継承したものである。「只管」ちは、ただひたすら、ただ一筋に一つの事に専念することである。「打坐」は座る事、座禅する事を言う。禅用語として、雑念を一切捨て去って、ただひたすら座禅を組み修行する。徒(いたずら)に、見性を追い求めず、坐禅する姿そのものが「仏」であり、修行そのものが「悟り」であると伝えている。
(写真:鎌倉 道元鎌倉御行化顕彰碑)
鶴岡八幡宮西の八幡宮裏のバス停近くに道元鎌倉御行化顕彰碑が建てられている。碑には「只管打坐(しかんたざ)」と刻まれている。それは道元が、時の権力者に頼ることなく純粋に仏行執行の地を求め、その地を越前志比荘笠松の永平寺であったのだろう。それゆえ永平寺は曹洞宗の戒律と修行において、日本の中の寺院で最も厳しい修行寺院として今も続いている。その修行には、「日々の行もすべからく修行であり」、食事を作ることも、食事をいただくことも大切な修行と位置付けられている。
(写真:鎌倉 道元鎌倉御行化顕彰碑)
食事の前に唱える偈文があり、『五観の偈』という。一、功の多少を計り彼の来処(らいしょ)を計(はか)る。二、己(おのれが)が徳行の全欠を忖(はか)って供に応ず。三、心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(どんとう)を宗(しゅう)とする。四、正に良薬を事とする形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。五、成道(じょうどう)の為の故に今この食(じき)を受く。食事作法に付いた書物『赴粥飯法』があり、一、仏曰く「窣都婆の形(卒塔婆、仏塔の形)を作りて食することを得ず」。二、比坐(ひざ:隣の人)盋盂(ほう:修行僧が使う食器「応量器」)の中を見て嫌心(けんしん:羨ましいと思う気持ち)を起こすことを得ず。三、飯(はん)を似て羹(こう:おかず)を覆い、さらに徳と望むことを得ず(ご飯でおかずを覆って隠しもっと貰おうとしてはいけない)。 これらは、一心に物事に向かい合う事が修行であり、寺での修行は原始共同体の生き方としている。釈迦が殺生を禁じたため、道元の時代から採食のみで、一汁一菜的な食事であった。現在の永平寺においても修行僧の献立は基本的に動物性たんぱく質を食べることは基本的禁止となっている。その献立は、比により若干替わるが、朝は、粥、たくあん、梅干し、ごま塩。昼は、ご飯、みそ汁野菜のごま油での炒め物。夕は、ご飯、みそ汁、たくあん、大豆たんぱくで作った揚げ物(揚げ豆腐等)、切キャベツで、みそ汁は鰹出汁を使わない。
入浴も修行であり浴室には、水により悟りを開いた跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)が祀られ、修行僧は入浴中も私語が禁じられる。話すことが禁じられている三黙道場があり、僧堂、東司、浴室がそれである。生活すべてが修行である。冬の越前は雪に覆われ厳冬の中、道元の教えに従う修行は、自身の意思により日本一厳しい修行道場を選択し訪れるのである。
道元の禅の教えは、「只管打坐」により「心身脱落」の境地にいたることをである。「法華経」の安楽行品第十四に「常好坐禅 在於閑処 修摂其信」(常に坐禅を好んで閑かなる処に在って其の心を修復せよ)と坐禅修行が明記されており、釈迦も坐禅により瞑想にふけり悟りを開いている。坐禅と瞑想の違いとは何ぞやという問いに、単なる瞑想は、宗教性は無く、心の安らぎや健康を求めるという目的に対する実利があるが、「只管打坐」は「心身脱落」の境地にいたるという目的があっても、実利を目的としていない。私たちが瞑想や坐禅を行う事で、心に平静を保たれるのであれば何ら問題はない。坐禅により宗教観を知ることで一層自信を見つめなおし、自信を深めることもできる。しかし、新興宗教でいかがわしい物もあることは事実で、過去にオウム真理教など大変な事件も起こった事は忘れてはいけない。曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の寺院では、一般人向けの早朝坐禅の会などが行われている。坐禅会後の説法も開かれているところもあり、聞いてみると良い事を言われており、自身の日々の生活の精神的支柱を与えてくれることもある。
(写真:鎌倉曹洞宗寺院 龍寶寺)
曹洞宗と臨済宗の禅を重要な修行と考えていることは同じである。違いは基本的に曹洞宗では壁に向かい何も考えることなく無の境地で座禅を行う。坐禅の姿そのものが悟りの姿と考え、「黙照禅(もくしょうぜん)」と呼ぶ。臨済宗の坐禅は壁を背にして、禅問答ともいわれる公案について考えながら、悟りに向かう姿を示し、「看話禅(かんなぜん)」と呼ぶ。深草の興聖寺において道元の説教を、弟子懐弉が記録した『正法眼蔵随聞記』において、「公案を学ぶ問えるところがあるが、坐禅ではそれほど得る者がない、それでも坐禅をした方が問いか」と弟子が道元に尋ねると「公案は仏祖のみちに遠ざかる因縁であり、それで悟りを開くのは、やはり坐禅の因縁によるものである」と答え、公案を否定するものではなく坐禅こそが悟りと述べている。
道元は坐禅をひたすら行う事で悟りを得た仏の姿であるとして、「只管打坐」は「心身脱落」の境地にいたる事が自己を忘れることができる仏道であると説いている。私たちが「黙照禅」を実際に行っても煩悩と雑念で頭が迷走してしまう。しかし、それが修行であり、その姿こそ仏の姿であると道元は説いている。 -続く
(写真:鎌倉曹洞宗寺院 龍寶寺)