「南無阿弥陀仏」を称えることで誰もが平等に阿弥陀仏の救済を受け極楽浄土に向かう事ができる浄土仏教は、法然から始まり、親鸞と続いた。そしてその専修念仏を一遍が「踊念仏」として継承していく。
釈徹宗氏『法然親鸞一遍』に、一遍の評価は、『法然・親鸞を超えて浄土仏教を完成させたと高い評価するのもあれば、「密教・神道・禅などと融合し、ただの土俗化してしまった浄土仏教」「法然・親鸞が開いた世界を、平安の習俗的仏教へと逆戻りさせた」などと酷評される場合があり、近代以降、一遍は必要以上に低く扱われてきた』と記述されている。「これは現在の教団規模において時宗は、浄土宗や浄土真宗の規模の十分の一位下であり、研究者も少ないこと」も挙げられている。
(写真:鎌倉極楽寺)
鎌倉において真言律宗の忍性が極楽寺で社会活動に貢献し、四箇院を作りハンセン氏病患者の療養を行った。これは、真言律宗の行動ではなく、忍性が奈良の西大寺にいたころから日本で初めて四天王寺で四箇院を作ったとされる聖徳太子の導きと愛染明王の信仰によるものである。「南無阿弥陀仏」を称えることで誰もが平等に阿弥陀仏の救済を受ける事ができる浄土信仰において、一遍は戸惑うことなく遊行念仏にハンセン氏病患者を信者として受け入れている。『一遍聖絵』に布で顔を覆われたハンセン氏病患者人々の姿や、食事を与える姿などが描かれている。現在では、抗菌薬の治療で根治出来るが、当時不治の病とされ、白斑や環状紅斑などの皮膚症状により忌み嫌われた。「南無阿弥陀仏を念ずることで、誰もが平等に阿弥陀仏の救済を受ける事ができる」という意味で、実践的に平等という点で近代宗教に近い完成形をもたらしたと私は考える。
(写真:太宰府天満宮)
一遍は延応元年(1239)伊予国(現愛媛県温泉郡久米村)久米郡の久米水軍系流、地方豪族の河野通広(出家し如仏と号した)の第二子として生まれた。法然没後二十七年、親鸞が六十七歳の時である。生誕場所として愛媛県松山市道後温泉の奥谷にある時宗の宝厳寺の一角とされ、元弘四年(1334)に同族の得能道綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が立てられている。河野氏は鎌倉時代初期には伊予水軍の将として有力御家人であり、庶流として陸奥国や信濃国に所領を有していた。しかし、承久三年(1221)承久の乱で庶流は朝廷側に与し戦死又は配流となる。伊予国の河野通久(母は北条時政のむすめとされる)だけが幕府に与したため、その一党だけが生き残った。河野通広は通久の兄にあたるが承久の乱の時には出家していた。承久の乱後に還俗し所領を持つが一遍の生まれた時には以前の勢いはなかった。十歳の時に母が亡くなると、父・通広の勧めにより天台宗継教寺で出家し、法名を随縁とした。建長三年(1251)十三歳で太宰府に移り、法然の高弟・証空(西山派の派祖)の弟子である聖達の下で浄土真宗西山義(西山浄土宗)を学ぶ。当初の一年の間は浄土教の基礎を学ばすために肥前国清水(現熊本県)の華台(けだい)の下で修学させ、その際に華台は智真と名を改めた。『法事讃』(巻下)に「極楽無為涅槃界は、隨縁の雑然を持ってはおそらく生じ難し」とあり、念仏以外の善は雑善(小善根)であり、往生できない根源の雑善である隨縁を名とするのは好ましくないという判断であった。華台は智真の聡明さに驚いたとされ、智真は建長四年(1252)から弘長三年(1263)までの十一年間、聖達の下で学んだ。
(写真:太宰府天満宮)
後世の書物である『一遍上人年譜略』は寛元三年(1245)の七歳の時に天台宗の継教寺で学び、宝治二年(1248)に母の死に会い出家の志を持ち建長三年に父に連れられ鎮西に渡るが、すぐに帰郷して建長五年に継教寺の教縁のもとで出家して隨縁と号したという。弘長三年(1263)に父が亡くなったことで鎮西に渡り弘西寺の聖達の門を叩き天台宗を捨て浄土門に入り法名を智真に改めたと記されている。一変し五十年後に完成したとされる『一遍上人聖絵』の巻中の第三段に父が西山証空上人、華台上人から訓点を付けた浄土三部経を与えられたと記され、父河野通広が証空や華台に以前から接していたことが窺われ、一遍の出家に対しては複雑な事情があったとされるが、『一遍上人年譜略』が、その後の略歴と合ってこない点が挙げられる。
智真が二十五歳の時、父の死(五月二十四日)を機会に還俗して伊予に戻る。妻をめとり、家督を継ぐが、一族の所領争いなどが原因で文永八年(1271)三十二歳で再び出家した信濃の善光寺で善導が「浄土に往生しようとする全ての人に対して信心の確立が理解しやすいように説いた譬(たとえ)話を描いた絵の『二河白道の図』に出会い、伊予の岩屋寺で修行し、窪寺では十却正覚の阿弥陀仏と一念往生の衆生とが一体であるという教えである「十一不二」の偈を感得したとされる。その後、文永十一年二月八日、妻超一、娘超二、下女念仏房の三人を連れ「遊行(ゆぎょう)」中心の生活に入り、生涯の大部分で「遊行」で送ることになる。四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地をめぐり修行に励み「六字名号」(「南無阿弥陀仏」)、を記した賦算(念仏札を配る)を始める。この文永の十一年十月五日に蒙古が九州に襲来した文永の役が起こった年であった。
一遍が熊野本宮に参詣する途中、一人の僧に念仏の札を配るがその僧は、「信心が起こらないのにこの札をうければ、妄語(嘘をつくこと)の罪になると言い、受け取りを断った。一遍は新人が起こらなくとも受け取ってほしいと僧に札を渡したが、僧は行方が分からなくなった。本宮の証誠殿(しょうじょうでん)に一遍が参籠した時、山伏の姿に変えた阿弥陀如来の垂迹身とされる権現が現れ、「親普請を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」と夢告を告げられる。この時から一遍と称し念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生、六十万人」と追記した。謡曲「誓願寺」では和泉式部の亡霊が現れ、一遍に対して「このお札に書いてあるように六十万人しか救われないのか」と尋ねる場面があり、一遍は『称ふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と歌が詠まれている。この札の六十万人の意味するところは、
・「六字名号」、六字の名号は一遍の法、絶対不二の方である。
・「十界依征一遍体」、仏も衆生もすべて絶対不二の名号体内の徳の表れである。
・「万行離念一遍証」、あらゆる自力の行いも、念仏申して執着の念を離れる時、絶対不二の悟りとなる。
・「人中上々妙好華」、このような行者こそ人中の最上の人、あたかも泥中の白蓮華にもたとえるべきひとである。この頭文字をとったものである。 ―続く