鎌倉散策 鎌倉期の災害、四 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 鎌倉期の地層発掘調査などにより、鎌倉の由比ヶ浜に注ぐ滑川から離れた調査部西側で「十三世紀末から十四世紀の木器を含む砂層」が検出され、その粒分析などを実施してこの辺りが「ラグーンや干潟のような環境」であったのではないかと推測されている。上本親二氏は、「明応の地震による津波では滑り川河口から津波が侵入し、引き波で内陸から運ばれた木片が干潟に堆積した形跡があるので、少なくとも明応七年(1498)までは潟湖閉塞されていなかったと考えられる」として浜名湖の査収で、砂州が破られたのと同じ現象があったのではないかと推測した。そのことから海浜部の干潟がこの地震による津波で現状の由比ヶ浜・材木座海岸を形成したと考えられる。

 

 話は長くなり、本題とは少し違うが室町期、江戸期、大正期、現代の地震による津波の被害も簡潔に記載させていただく。室町期に起こった明応四年(1495)八月十五日と明応七年(1498)八月二十五日の二つの地震が発生した。津波が発生したのは『鎌倉大日記』によると「(明応)四乙卯(きのとうの年)八月十五日、大震洪水、鎌村由比ヶ浜の海水千度壇に至る。水勢大仏殿の堂・舎屋を破る。溺死者二百余人」と記されている。明応の津波を記されている書物は多く存在するが『鎌倉大日記』は治承四年(1180)から天文八年(1539)までの主に東国で起きた事件を記し、南北朝時代から書き継がれた歴史書で執筆経緯や著者も不明で原本も残されていない。しかし、『鎌倉大日記』が一番古い書物として検討された。そこで、この津波に関しての存在が明応四年説と明応七年説に分かれる。紀伊半島から房総半島までの沿岸部に被害を及ぼした明応七年説を[震災予防調査会]が(1990年代)支持し、『鎌倉大日記』の発生日が「(明応)四乙卯(きのとうの年)八月十五日大震洪水」が同書の原典から年月を誤って転記した可能が高いとした。

 近年、金子浩之氏の明応四年説が定着している。しかし、当初「鎌倉由比ヶ浜の海水千度壇に至る。水勢大仏殿の堂・舎屋を破る。溺死者二百余人」と『鎌倉大日記』が記載されていることから、「標高七メートルを測る現在の二ノ鳥居を過ぎて鶴岡八幡宮の社塔(横大路の現在標高は約十メートル)近くにまで津波が到達し、『溺死者二百余』という被害を出したと記しており、鎌倉の沖積低地の大半は被災したと理解できる」とし、大仏殿についても「既に無かった物の関連する坊舎や諸堂が流出した可能性は高いとした。また、鎌倉市(1979a)の明応六年『善法寺寺領書上』の資料の記述から『明応四年津波で都市が崩壊され二年後にようやく住民が戻り、再び土地区画のする必要が生じたのだと解される」とし、同四年の鎌倉の津波襲来に関連付けた。

 

 「鎌倉由比ヶ浜の海水『千度壇』に至る」との記載で『千度壇』とは何を指すのかというと、若宮大路の段葛の置石で覆われたところを指す。『善法(宝)寺分年貢注文』と同じ明応期の頃と推定される相模原市津久井町光明地蔵の『善宝寺地図』には「善宝寺の地」等の書き込みのほか若宮大路に「置石」ときされており、横に滑川を渡る橋と東に米町の記載がなされている。この事からこの橋は現在の下馬四つ角付近にある延命寺橋と推定する事が出来た。当時、段葛はここまであった事を示し、二の鳥居マデ冠水はしておらず、下馬四つ角付近まで津波の冠水があった事を示した。明応の地震による津波が仁治二年(1241)の津波と同規模と考えられる。「水勢大仏殿の堂・舎屋を破る。」は、否定・肯定される事が多く、坂ノ下、長谷の海浜部と平地部では、古代から室町期の遺跡から津波痕跡が確認されておらず、大仏谷に津波が遡上する環境は特にない。しかし、高徳院の寺領地がどの辺りまで有ったかにより、「堂・舎屋を破る」と言う事が結論付けられるが、それらを示す資料は存在していない。明応の地震による津波で「溺死者二百余人」という記載は、当時の明応期は、古河公方と室町幕府に擁立された堀川公方が対峙していた末期であり、鎌倉においては、以前に比べ比較できないほど寂れていた。人口も激減していたとされ、沖積低地に住む住民も少なかったことが推定される。後述する大正関東大震災の死亡者数と比較検討する事が出来る。また、明応四年九月に伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に入城し、その後、衰退・荒廃していた鎌倉の復興を始めている。

 

 近世に入り元禄関東地震は、永保四年(1707)四月四日に発生した宝永南海大地震及び同年十一月二十三日からの富士山噴火を指す。 鎌倉は徳川幕府の天領地とされ五代将軍徳川綱吉の時代であった。この地震により房総半島・九十九里浜・三浦半島・伊豆半島などで犠牲者となった人々の供養塔や墓碑が多く存在する。逗子・鎌倉・江ノ島においては小坪(現逗子市)で『基熈(もとひろ)公記』に「民屋のこらず津波にとられ候」、鎌倉において「由比の浜大鳥居破損、二の鳥居まで津波入申候」とあり滑り川を津波が遡上し現在の鎌倉駅周辺まで浸水したとされ、「光明寺津波入」と記されている。『祐之(すけゆき)地震道記』「由比の浜の辺りは津波打ちよせて、通路かなひかたき由」と記された。津波の高さは最高六・七メートルであったと推定する。

 嘉永七年(1854:安政元年)十一月四日、安政東海地震が発生している。『巷街贅説』巻之七が相模湾と江戸湾に津波被害があったことが伝えられている。『浜浅葉日記』には横須賀・逗子方面に被害の記述があり、「甲寅日記」嘉永七年十一月四日から八日条に地震・津波の様相と被害が記載されている。余震が連続して起こり海水が沖へと遠く引いた後、三度の津波に見舞われた。「大橋」の橋杭が残らず流され田畑が冠水し「浦賀谷戸新地」当たり床上浸水があったと記されている。

 

 大正十二年(1923)九月一日、大正関東地震が発生する。赤橋直美氏の「関東大震災地の復元―鎌倉を例として―」と題する論文があり、参考にさせていただく。鎌倉の深度が七、津波は地震直後、相模湾では二~三百メートル潮が引き、十分程で第一波が襲来、二波の津波は九~十メートルに及んだと言われている。鎌倉では二波が最大で材木座付近で波高五―六メートルに達した。鎌倉町内の死者数が四九七名、当時の人口は一七六〇〇名弱、戸数は四一八三戸であり、八十五パーセントが何らかの被害を受けている。津波による流失戸数は乱橋材木座三十戸、長谷三十戸、坂の下五十三戸の百十三戸であり、由比ガ浜周辺地には流失が無かった。津波による死者数は確定できず不明であり、『神奈川県震災誌』には、由比ガ浜付近では約百名が海水浴をしていたが、その生死は不明としている。また『鎌倉市史』では、その日の天候不良のため、ほとんど海水浴客はいなかったとし、情報が錯綜している。赤松氏は「数は定かではないものの、海水浴客にも被害が及んだことだけは間違いないであろう」と記されている。全戸数の八十五パーセントが何らかの被害を受けているが津波による被害は二・七パーセントと低いことが示された。 ―続く