鎌倉散策 鎌倉期の災害、三 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:北鎌倉 大峰から見た円覚寺と富士山)

 「鎌倉における過去の津波について」浪川幹夫・平田恵美・辻亜紀(以上鎌倉市教育委員会)・萬年一剛(神奈川県温泉地学研究所)が、中世から近代までの鎌倉に襲来した地震による津波を詳しく論文として、まとめられている。鎌倉を襲来した四例の津波の規模と被害状況や被災場所ほか、推定到達最高高と塔着地点に関して他史料から共通点・相違点を比較検討されている。

 

(写真:鎌倉 大鳥居と周辺)

 鎌倉期に津波を伴った地震は仁治二年(1241)四月三日に発生した仁治地震のみと考えられ、先述した通り。「由比浦の大鳥居の拝殿が潮に引かれて押し流された。」と『吾妻鏡』に記載され、場所の特定を『快元僧都記』に北条政権下の鶴岡八幡宮集営に際し、天文四年(1535)一月七日には間の大鳥居の復興が開始され、この普請の中で、同署の動九年二月一日条に「浜鳥居根掘之。二丈余入 土中 之間。送 日数 畢。沙底不 新木」と同鳥居再建での掘削作業中に旧鳥居の「根」がその場所から出土し、それはまるで新木のようであったと記されている[続群書類従寛正介]。そして、昭和二年二月の発掘調査で発見され直径一六〇センチメートル、以降の構造は芯材、中間材(八個)外周材(十七個)の寄木造りである。本体はヒノキで、結合剤はケヤキである。天文二十二年(1553)北条氏康(小田原北条氏・後北条氏)によって建てられた大鳥居と言われている(発掘地説明文より)。この論文は、その場所は由比ガ浜二丁目の鎌倉女学園前交差点付近が考えられると記されている。

 

(写真:鎌倉 由比若宮)

 このほか齋木秀雄氏(2004)は発掘調査状況から、鎌倉時代の由比ガ浜砂丘を「一ノ鳥居辺りで海抜八メートルを測り広大である上に小山状に高い」としている。「大鳥居の拝殿」の拝殿とは前九年の戦いで安部貞任を打ち破った源頼義(河内源氏の祖)が康平六年(1063)八月に京都石清水八幡宮より感情を受け先勝のお礼として由比郷に建てた由比若宮(元八幡)の事なのか、『吾妻鏡』では、治承四年(1180)十月十二日条に由比若宮の勧請された経緯と小林郷北山に遷し現在の鶴岡八幡宮を造営したことが記されているが、それ以降の中世の資料には由比若宮の記事は無い。江戸期に入り浅井了井『東海道名所記』に源頼義の勧請の経緯と由比郷に宮を立てたのは「今の若宮と申すはこれ成り」と記されている。徳川光圀の『鎌倉日記』に「下若宮 裸地蔵(現延命寺)ノ東南ノ浜ニアリ」と記載があり、享保十七年(1732)「鶴岡八幡宮絵図」に「由比若宮社」の社殿が描かれている。さらに、『新編相模国風土記稿』巻七十二に「鶴岡八幡宮(中略) 案ずるに由比若宮の旧地は、由比浜大鳥居の東にあり、今の小社に在りし」。また、同書巻八十七に「下若宮(中略)其(鶴岡八幡宮の)旧地なれば今に祠有りて鶴岡八幡社職の持とす」など記されており、社殿は中世以降あり続けたと推定している。また両地点がともに現在の海岸線から約八百メートル内陸の推定旧入江奥部と旧潟湖あるいは湿地帯)最奥部に所在したことから流失した「拝殿」は浜の大鳥居付近にあった可能性を指摘するが、現在の由比若宮が継続して社伝があったならば、「拝殿」が建てられていた場所が同宮境内になるとも推測できるとしている。しかし建物の有無は不明とした。

 

(写真:鎌倉 由比ヶ浜・材木座海岸)

 発掘調査が進められ、発掘物の出土状況を検討する中、さらに海浜部及び平地部の中世初期の地形について検証されている。「由比ヶ浜の海岸砂丘がおなり小学校校庭の東端を含んで鎌倉駅近くまで延び」「材木座地域からJR横須賀線辺りにかけて大きな海岸砂丘が存在し」「滑川河口付近に異物・遺構の全く確認できない潟・湿地上の地域が存在する」として、現在と異なる点にも注目された。滑川河口付近から材木座海浜部における海抜三・四メートルの範囲内で古代から中世紀初期にかけて旧潟湖の存在が推定され、一方、長谷・坂ノ下方面では美奈之瀬川と稲瀬川の料河口付近以外、現海浜部の砂丘上に古代から中世の生活遺構が重層的に存在した。そして、海浜部から内陸に向かう平地には、鎌倉時代から室町時代にかけ続いた遺跡や寺院等に関連した遺跡が存在すると指摘される。

 これらの事から仁治地震については、八メートル強の高さの津波の引波による影響により、由比浦の大鳥居の拝殿が潮に引かれて押し流された。そして材木座周辺は浸水した。過去の資料が少なく、この災害において幕府・御家人、そして鎌倉の民衆がどのように公助・共助・自助が行われたかは不明であるが、再建が行われていることから、何らかの対応があったと推測する。

 室町期に起こった明応四年(1495)と八月十五日と七年明応七年(1498)八月二十五日の二つの地震が起きており、明応七年の地震が、津波により高徳院の仏閣を流したとされているが、仏殿は以前文明十八年(1486)の大風により倒壊していたため、当時から露座の大仏として現在に至っている。この明和の地震による津波の被害・浸水地など不明点が多く残されていた。 ―続く

 

(写真:鎌倉 高徳院 鎌倉大仏)