(写真:大阪市阿倍野区 阿部晴)
鎌倉期の風害に伴う被害として、多く進在するが、『吾妻鏡』では九月一日条「亥の一刻より寅の四点まで大風。仏閣・民家が多き店頭・破損したという。」と記載があるだけだが、長谷の高徳院の大仏(当時木造とされる説がある)が、この大風で倒壊した。建長四年(1252)八月十七日条に「今日、彼岸の第七日にあたり、深沢で金銅の八丈釈迦如来像の鋳造を始めた。」と記されているだけで、不明点が多い。しかし、現在の青銅像の大仏で、その後、大仏殿に安置されたという。大仏殿は二度の大風で倒壊したが、その都度再建された。しかし、後述させていただく、室町期の明応七年(1498)九月二十日の津波で大仏殿が流され、その後から露座の大仏として現在に至っている。長谷の高徳院の大仏の被害を述べさせていただいたので、文永十一年(1274)の飢饉について述べさせていただく。この飢饉は、多くの餓死者を出している。『性公大徳譜』に「同十一年飢饉、死スルアリ、大仏谷ニ於イテ飢人ヲ集ム、五十余日粥等ヲ施ス、」と記されている。この飢饉は文永・健治の飢饉の一つで、この時期に飢餓が続いた。「大仏谷」は現在の長谷の高徳院大仏に向かう谷の事であり、忍性が飢饉により飢えた人を集め五十余日の間、粥の炊き出しを行った。地元の民や各地から集まった民衆が多く集まったと考える。忍性は、五代執権・北条時頼や嫡子である八代執権・時宗から多くの利権を得て社会福祉活動に力を注いでいた。忍性開山の極楽寺は、開基が北条重時であり・子息・業時も帰依したとされる。そのため、公助的な活動ともいえるが、極楽寺の檀家・旦那・近隣住民の働きが無いと行えなかったと考え、これも共助を含むものと考える。
(写真:鎌倉 高徳院大仏)
鎌倉期の地震については、『吾妻鏡』、『海道記』から五十六回の記述があり、余震等を入れれば二百回ほど記載されている。鎌倉の地は地震発生とともに谷に囲まれた谷戸では山崩れが多く発生し津波の被害も甚大であることから、特に幕府上層部に危機感を与えた。地震は社会不安の発生と結合するのだが、鎌倉では和田合戦をはじめ地震発生により兵乱が発生したことが幾度か確認できる。その典型例は永仁元(一二九三)年の大地震の渦中に発生した平頼綱の乱である。この事件は、地震のなかで偶発的に起こった事件と解釈されることが多いが、得宗北条貞時の衰日克服と連関して引き起こされたという説もある。また、陰陽師による自然災害の予防的手段として「天地災変祭」や真言僧による復興の際に「犯土」という土地神を鎮める宗教行事が行われた。そして、谷戸が多い鎌倉では、地震等の際の山・崖崩れなど生埋者の救出や地曳(じびき:地ならし地突きの際に行う儀式)に陰陽師や真言僧が深く関与したとされる。また、いわば地震後の内乱発生の予防的措置とも考えられる。町の復興には建築物を建てる際に、吉日を選ぶが、災害時においては、それに拘らず、即刻復旧することを指示している。また、少ない事例の一つであるが円覚寺では門前居住の「在地之者共」に在家別の負担を決めて作道などの工事が行われた。幕府は、寺社・御家人ごとの復興作業を割り当て、全体的な都市鎌倉の復興がなされたと考えられる。
(写真:鎌倉極楽寺)
鎌倉期においての地震でマグニチュード(Mw=)7以上のクラスの地震が三度起こっている、仁治二年(1241)四月三日の仁治地震が起きている。『吾妻鏡』では「戌の刻に大地震。南風が吹き、由比浦の大鳥居の拝殿が潮に引かれて押し流された。着岸していた船十余艘も破損した」と記されている。正嘉元年(1257)八月二十三日、推定Mw=7.0-7.5の正嘉地震(相模トラフ巨大地震で震源地相模湾と推測されている)鎌倉の神社仏閣に被害が激しく一部の地点で地割れや水の噴出が発生し液状化現象も起きたとされている。中下馬橋付近では、青い炎が出たという。奥屋転倒被害多し、山崩れ多く、また、余震も多く発生した。正応六年(1293)四月十三日推定Mw=8の鎌倉大地震(相模トラフ沿いのプレート間巨大地震)が発生した。『鎌倉大日記』では翌日も余震に見舞われていることが記載されている。建長寺炎上倒壊、寿福寺本殿倒壊そして大慈寺が土砂災害により倒壊、鎌倉各地で土砂災害による埋没者推定二万三千人の死者が発生したと『武家年代記裏書』に記されている。この震災による混乱を決起として兵禅門の乱がおきている。幕府執権北条定時は、当時幕府内で専横をふるっていた執事・平の頼綱親子を討伐した。 ―続く
(写真:鎌倉 一ノ鳥居と鎌倉市中)