中世が始まった鎌倉期において1185年から1333年までの148年間災害の時代だったと言える。名古屋大学減災連携研究センター教授の福和伸夫氏によると「大化の改新以降、現在までの1375年の歴史で地震による改元が二十八回おこなわれた。平安期の三百九十一年で八十八回の改元が行われ、災異改元が半数の四十四回であり、地震による改元が九回行われた。他に疾疫二十一回、旱魃(かんばつ)・風災にかかわるもの十八回、飢餓に関わる改元が二回で、特に疾疫が半分近くを占めている。鎌倉期において年数は平安期の三十七パーセントであるが改元数は五十八パーセントの五十回の改元が行われている。その内、災異改元が三十回を占め、地震による改元が十一回行われた。この事から鎌倉時代の地震による改元が如何に多かったのか特筆される。他に疾疫十一回、旱魃(かんばつ)が五、風災が四、水災が、飢餓、火災にかかわる改元がそれぞれ三回ずつあった。」と述べられている。
(写真:鎌倉 若宮大路段葛)
まさしくこれらの情報により、鎌倉時代は災害の時代であったと言える。災害において予防の対策と災害時の公助・共助・自助があり、鎌倉期ではどの様な対策が行われてきたのだろう。災害の予防として鎌倉期に入り源頼朝が鎌倉を拠点として町造りを行った際、鶴岡八幡宮に通じる若宮大路の段葛の両側に幅約三メートル、深さ一・五メートルの溝が掘られた。理由としてその周辺が湿地であり、排水を伴う事と下水処理を伴うために作られたと考えられる。また、過密してゆく武家屋敷や民家にも溝が設置されていた。また弘長元年(1261)に発せられた「関東新制条々」と言われる法令の中で「病者や孤児、死屍や牛馬の骨肉を道路に捨ててはいけない、病者や孤児は保の奉行が指示して無常道に遅れ」と記されている。当時の京都よりも疫病の予防といった衛生管理を考えた町であったと考えられる。
(写真:鎌倉 源頼朝の墓標 まんだら堂やぐら郡)
鎌倉幕府初期の墓は法華堂に納められており、有力者は競い法華堂を立て、そこに納められた。源頼朝の墓の石塔が現在露店に置かれているが、本来、その場所に法華堂があったという。十三世紀の三代執権北条泰時の時代に天災が相次ぎ不慮の死者も多かった。鎌倉の地は平地が少なく、人口増加に伴い、居住地が失われる事を避けるために幕府は平地に法華堂を立てる事を禁止したらしい。「仁治禁令契機」において仁治三年(1242)に大友氏の所領(豊後、現在の大分県)で、「府中に墓所を作らない」と言う法令が出されている。これが幕府法としてあったとされ、平地に墓所を作ることが出来なくなり崖裾に墓所をかまえた。これが、やぐらの発生と考えられ、衛生管理上も火葬が基本であり、山々の崖においては鎌倉特有の凝灰岩でできているために横穴が彫りやすく墳墓堂を作ったとされる。鎌倉地域を離れると、やぐらは、ほとんど見られない(一部、石川、富山、千葉、大分、宮崎、鹿児島に存在するが御家人の移住により継承されたものと考える)。
(写真:鎌倉極楽寺)
旱魃(かんばつ)により、飢饉・飢餓においても予防は困難であるが、旱魃による降雨の祈祷などが行われている。『性公大徳譜』によると文永八年(1271)の夏、田辺池(鎌倉市日知里ヶ浜二丁目)で日蓮と忍性の祈祷対決が有名であり、日蓮が勝った所とされ「日蓮雨乞いの池」と言う中世において、江の島と並ぶ祈雨祈祷の場所であった。忍性は極楽寺でハンセン氏病患者の療養や他の役病患者の療養にも当たっている。これらは災害時の公助と共助にあたるだろう。そして祈雨祈祷の達人とも称された忍性は、正安三年(1301)八十五歳も時には田辺池で祈雨祈祷を行い寺まで帰らない内に大雨が降ったという。これが忍性の最期の祈雨祈祷となった。そして、当時としては宗教的な儀式に頼るしかなかった。しかし飢餓においては対応を行い施すことはできる。
(写真:鎌倉 七里ガ浜 霊光寺)
時代を少しさかのぼるが、幕府二代将軍頼家は政務を怠り、蹴鞠に没頭していた時、建仁元年(1201)八月十一日、二十三日に鎌倉に大風が襲い。鶴岡八幡宮寺の回廊なども転倒する被害に襲われ、穀物が損害する中、頼家の避難は高まった。二十二日の蹴鞠会で江名太郎、後の三代執権北条泰時が秘かに親しく付き合う中野能成に頼朝を例に挙げ諫言を申すように求めている。この事で親清方眼という僧が泰時の諫言が頼家の御心に背いたと見受けられ、病気と称して伊豆にしばらく在国するように進言する。しかし泰時は讒言したのではなく自身の考えを頼家近従に話しただけで、在国していても罪科については関係がないと答え、すでに伊豆での緊急な要件が起きたので、明朝三日に伊豆に下向すると伝えた。十月六日、北条泰時は伊豆北条に向かい、昨年農作物に被害を受けた窮民支援の為に米を与え飢餓から農民を守っている。『吾妻鏡』健仁元年(1201)十月六日条、「江間太郎殿(北条泰時)が伊豆国北条に到着された。この地で去年、少しばかり農作物が被害を受けたので、この春には庶民の食糧が乏しく、全く工作の見通しが立たなかったので、数十人が連署を提出し、出挙米五十石を賜った。そこで返済の時期が今年の秋であったところ、先月の大風の後に国郡の穀物が大いに被害を受け、飢えに堪えられない者たちは今にも餓死しようとしていたため、出挙の米の負債を抱えている者たちが、すでに譴責(けんせき)を恐れて逐電の意志を抱いていると(泰時は)聞き及ばれたので、民の愁いを救うため、鞭を振り上げ急行されたのである。今日、その数十人の債務者を呼び集められ、その目の前で証文を焼き捨てられた。豊作になったとしても追及して返済を求めることはないと、(泰時は)直接によくよく命じられた。それだけでなく食事や酒、また一人一斗の米を賜ったそれぞれあるいは喜び、あるいは涙して退出した。皆手を合わせて(泰時の)子孫の繁栄を願ったという。食事や酒などは、あらかじめ沙汰人に用意させていたのである」。『吾妻鏡』が北条氏の編纂であるため誇大表示している面もあるが、私の好きな場面の一つである。当時の国司・守護・地頭により対応は様々であり、泰時の行いは、まれだったかもしれないが、これが鎌倉時代の公助であったと考える。
(写真:鎌倉 一の鳥居 由比ガ浜から見た稲村ケ崎)
水害として鎌倉は元々砂丘により滑川がふさがれやすく地形であり、洪水・冠水が誘発されやすい地形であった。水害の発生は各書物から鎌倉期において二十一件あげられている。また、先述したように若宮大路の側構や武家屋敷や民家にも多くの溝が設置されていたため、溝の管理は幕府も関与し、予防的な対策を示していた。溝の上での家屋の禁止や大路側構の工事は御家人に賦課されていた。幕府は、溝の清掃等は保の奉行人が幕府の意を受けて行い、各家々の溝については個々の受益者により負担されたと思われる。(高橋信一郎氏『中世鎌倉のまちづくり』)。また風害・地震についての天災は、もちろん当時にしてみれば、予防的な対策を打ち出すことができなかった。 ―続く